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1 マリブロン 登場
「すかしてんじゃねえぞ、タコッ! なんだぁ? けしょうしている人がいるようですだぁ? てめえこの教室でアタシ以外に誰がけしょうしてるってんだ? あたしならあたしってはっきりいやぁいいじゃねえか! この陰湿キツネ野郎が!」
秋の穏やかな昼下がり、花の井高等学校の二年二組の教室でこんな怒鳴り声が上がりました。
黒板には『今学期のやってはいけない三ヵ条』と書かれ、その下に『授業中の談話』、『過度な私物の持ち込み』、『カンニング行為』等々候補が上がっています。
今二組は学級会の時間で、先生はいませんでした。
「学級会は生徒たちだけで」というのが先生のやり方で、学級会の終わる十分前までは帰ってきません。
クラスメイトのひとりにひどくあわてている男の子がいます。ひたいにびっしりと汗をしたたらせ少し膝を震わせている、キツネ顔の男の子。先ほどまで、にんまりとして堂々としていた彼は、今や教室中の生徒たちの視線を一身にあび大変後悔していました。
彼はさっきこういったのです。
「この教室にけしょうをしている人がいるようです。そんな人は二組として迷惑だし、今学期の禁止事項にいれるべきです」
今この場をまとめなければいけないクラス委員長兼議長は教壇の上で非常な勢いで考えました。
名前を竹久草子といいました。短髪のショートカットに少年のようにキリッとした顔は、常にクラスメート全体に向けられています。
〈困った困った、何が困ったってけしょうは確かにいけないことだもの。生徒手帳にも載っているわ。でもあの子のいうことももっともだ。いやあの子のいうことがもっともなのよ。彼のあんな卑怯ないいまわしは、ワタシだって引っ叩きたくなる。ああでも、とにかくワタシ、あの子の気をしずめないと。でないときっとあの子は、、〉
バン! この音は筆入れが今やおびえきっているキツネ男くんのすぐ横の壁に当たった音でした。外れたとわかると、さぁその子はいっちょく線に——つまりみんなの机やいすを押しのけぐちゃぐちゃにかき分けながら——キツネ男くんにせまっていきます。
草子の心配が当たってしまいました。
ドタン! バタン! キャー!!
みんなが騒ぐのなんてお構いなし、その子は左手でぐいとキツネ男くんのえり首をねじ上げ、右手はぐーを作りました。瞳は怒りに満ちたヒョウのようにすごんで見えました。
もう一歩遅かったら、その子のぐーの手は、キツネ男くんの顔面をとらえていたことでしょう。すんでのところでその子を立ち止ませる声があったのです。
「マリブロン!」
マリブロンと呼ばれた少女は教壇の方に振り返りました。
くちべにを真っ赤に塗りファンデーションは厚く、下手なけしょうをした女の子、長髪の髪の毛は赤褐色と黒のまだら、全く似合わない、寝ぐせともとれるパーマをかけた女の子、それがマリブロンでした。
しかし本当ならマリブロンは、学校中で知らない人はないほどの美しさで知れ渡っているはずでした。
顔立ちは整っていましたし、瞳はその心根を反映して、高山の泉のように深く澄んでいました。髪もパーマなど当てなければ、黒々と艶を持って美しかったのです。
今でもマリブロンは学校中に知れ渡っていますが、それは不良然としたこの姿によるものでした。
「なんだよそうし、まさか止めるんじゃないだろうな?」
そうしというのは草子のあだ名です。大概のクラスメイトは女子はそうしちゃん、男子はそうしさんと呼びました。草子は男子にも女子にも好かれていました。
「なにいってんのマリブロン、当たり前でしょう。わたしはクラス委員長なのよ。もう一度いいます、マリブロン、やめなさい」
すると意外にもマリブロンと呼ばれた少女はその通りにしました。
マリブロンというのもあだ名です。本名は浮論真理といいます。ただしその名で呼ぶのは教室はおろか、学校内でも、ただひとりだけでした。
マリブロンは舌打ちをして、
「二度目はねぇからな」
と、つかんだキツネ男くんのえりくびを放しました。
「マリブロン、あやまりなさい」
「なんだぁそうし、なんだってあたしがこいつに」
「彼にじゃないわ」
草子はマリブロンにいったあと、教壇に両手をつきクラスメイト全体を見渡しながらいいます。
「今の意見はあきらかに一個人を指していました。今は今月の禁止事項を決める場です。もちろんけしょうもパーマも本校では禁止されていますが、この場で議論する議題ではありません。よって今の意見は却下します」
そしてマリブロンにいいました。
「マリブロン、わたしはみんなに謝りなさいといっているの」
草子は場を公平におさめると、マリブロンを強く見つめました。
するとようやくマリブロンは、草子のいわんとしていることを理解しました。
教室は一直線に、まるで猪でも通った後のようなありさま、机は三つほど倒れていましたし、椅子もふたつほど逆さまになっていました。床にはみんなの鉛筆や消しゴム、ノートがばらまかれたています。
クラスメイトは、すっかり驚いてしまって口を開くものはありせんでした。
先ほどはヒョウであったマリブロンは、今や小さなウサギになってしまい縮こまりました。
けしょうの上からでも、恥じらいと後悔で顔を赤らめているのがわかりました。いたずらが見つかってこれから叱られようとしている小さい男の子のような、バツの悪い表情です。
「な、なんだよ、だってだって……ついカッとなっちまったんだから。カッとなると周りのものが見えなくなって……このありさまだ……。ちぇっ、どうせアタシはこのクラスのお荷物さ。あたしゃ消えるよ」
マリブロンは教室をスタスタと出て行ってしまいます。
「もう! ぐちゃぐゃしにちゃって」
「小嶋くん(キツネ男くんのことです)がいけないのよ」
「そうだ今のは小嶋がわるいよ」
「でもさっきの浮論さん、なんか申し訳ないって顔だったよ」
「やれやれね、いつものことよ」
机やイスを直し散らかった鉛筆やらを拾いながらみんな口々にいいます。
マリブロンがいなくなった途端、キツネ男くんはすっかり元気になりこんなことをいいます。
「なんだっていうんだよあいつ! 僕は本当のことをいっただけなのに。こんなにみんなに迷惑かけて出て行っちゃうなんて理屈を知らなさすぎるよ! なぁみんなもそう思うだろう?」
しかし彼にあいづちをするものはひとりもありません。むしろ、キツネ男くんを呆れたように見返す生徒が何人かいたくらいです。
途中廊下で担任の先生に会いましたが、マリブロンが「はらが痛いんで早退します」というと、先生はしかめ面をしただけで声をかけることはありませんでした。
授業中の廊下というものはひっそりとしてずいぶんさみしいものです。たったひとりでいればなおさらです。
しかしマリブロンは頭に後ろ手を組んで小さく口笛を吹きながら、のしのしとのんきに歩いてゆくのでした。
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