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車は、高級住宅街の中でもひときわ大きい家の前に止まった。車の窓を開け、インターホンを鳴らすと、女性の声が聞こえてきた。
「喜八郎です」
『おかえりなさいませ』
その声とほぼ同時に、大きな門がゆっくりと開いた。な、なんだ! この家。木曽さん、こんな家に住んでいるの?
「ここは、私の祖父の家です。戸籍上は、養父ですが」
「え?」
聞き慣れない言葉が並び、ポカンと口を開けた。
「私は、祖父の養子なんです」
祖父の養子? 簡単に言えば、おじいさんが、自分の孫を子どもにしたって、こと? 何が目的で、そんなこと。木曽さんの言うことが、全く理解できなかった。
「おかしな感じがします」
素直な感想を述べると、「そうですね」との苦笑いをされた。木曽さんのおじいさんは、お金持ちなんだということくらいは理解した。そして、その養子である喜八郎さんも。なんだかとんでもない人と知り合いになったんだな、私。
「おかえりなさいませ、喜八郎さん」
豪邸に入ると、家政婦さんらしき女性が温かく出迎えてくれた。
「ただいま。申し訳ないんですが、何か食事をふたり分、用意してもらえませんか?」
「わかりました。お部屋にお持ちします」
「よろしくお願いします」
木曽さんは、家政婦さんにも丁寧な言葉をかけた。
「あやめさん、どうぞこちらへ」
「あ、はい! すみません」
急に声をかけられ、訳もなく謝る私。そんな私に微笑みかけると、部屋に招き入れてくれた。ひとり部屋には広すぎるくらいの部屋に。
「食事ができるまでの間、話でも聞きましょうか」
「あ、でもっ! 本当にお恥ずかしい話で」
恋人だと思っていた男性は、実は既婚者で。しかも、奥さんと鉢合わせても、平然としていられる=単なる同僚としか思っていない。こんな恥ずかしい話、知り合って間もない男性に、話せない。大げさなくらい、手をブンブンと振って『聞く価値のない話です』というリアクションをしてみせた。
「大丈夫。私しかいませんよ? それともそんなに卑猥な話ですか?」
「い、いえっ!」
木曽さん! そんな真顔で『卑猥』とか、言わないでよ。余計に恥ずかしくなった。
「では、話してください。あやめさんの話、聞かせてください」
「そんな。つまらない話ですよ?」
そう言いながらも、誰かに聞いてほしかった私は、話を聞いてもらうことにした。
「恋人だと思っていた男性が、既婚者だったなんて。酷い話ですね」
私の愚痴を黙って聞いていた木曽さんが、急に立ち上がった。
「どうかしましたか?」
「非常に腹立たしいです」
木曽さんは穏やかな口調のままそう言うと、部屋の中をウロウロとし始めた。
「その男性の名前は?」
「え? 聞いて、どうするんですか?」
思わず、質問を質問で返した。名前を言ったら、私のかわりに復讐でもするつもり? まさか、ね。知り合ったばかりの私のために、そんなリスクを犯すほど、バカな人ではなさそうだけれど。
「世の中の悪を、正すだけです」
「……はぁ」
木曽さんの言うことは、よくわからないことだらけだ。でも、彼の目は真剣そのものだった。
「飯田賢治」
そんな木曽さんの目にみつめられた私は、ポツリと名前をつぶやいていた。
「ありがとうございます」
ハッとして口を覆った瞬間、トントンとドアをノックする音が聞こえた。
「食事ができたようです」
木曽さんの優しい微笑みは、ケンさんとの一年間を、一瞬にして消してくれそうな気がした。なんだ、私。惚れっぽいな。いや、違う。タイミングが良かっただけだ。
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