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救世主
貴重な休みは一日中、家に引きこもり、ぼんやりと木曽さんのことばかり考えながら過ごした。
「おはようございます」
今日は朝から元気よく出勤。担当仕業の札をチェックして、出勤したことを知らせた。
「あれ?」
思わずつぶやくと、担当仕業の札を二度見した。ケンさんの札が、なくなっているのだ。
「おはよう、あやめちゃん。昨日は大変だったよ」
大町さんが、私の肩に軽く触れながら挨拶をしてきた。
「ケンの不倫がバレた」
私が挨拶を返す前に、大町さんが言うと私の耳元に唇を寄せてきた。えっ? と、声にならない声をあげると、大町さんの方に振り向いた。
「ここだけの話、アイツ、あやめちゃん以外の女性にも手を出していた」
信じられないけれど、これが現実だ。大町さんが嘘をついているとは思えない。
「それで、ケンさんは?」
大町さんにだけ聞こえるような、小さな声で聞くと、首を傾げて『わからない』と言うようなリアクションをしてみせた。ケンさんが処分されるのならば、私も罰を受けなくてはならないはず。
「誰がどうやって報告したのか、わからないけれど。相手の女性は、騙されて付き合っていたことになっているし、相手の女性は誰なのか、知らされていない」
私や他の女性は、騙されていたから罰を受けないようだ。
「たまたまオレが、いろいろ知っていただけだよ」
ポンと肩を叩かれ、ビクッとした。
「今夜、オレの部屋に来てくれるよね?」
大町さんは私の返事を待たずに、去っていった。嫌な予感。ややこしい話になってしまった気がした。
運転士スイッチが入る仕事中は、大町さんのことは気にならなかったけれど。折り返しの電車を発車させるまでの合間にトイレに行くと、ふと、いやらしくニヤリと笑った大町さんの顔が頭に浮かんだ。大町さんの部屋に行ったら、ロクなことにならない気がする。ケンさんの不倫相手が私だったことを会社にバラすと言って脅されそうだ。大町さんの部屋に行かなかったら、行かなかったで、ロクなことにならない気がする。私の部屋に来るよね、間違いなく。どちらにしても、脅されて、交換条件を突きつけられて。
「考え過ぎかな? 私」
ひとり呟いた。大町さんは、そこまで悪い人ではないかもしれない。弱みにつけこんで、付き合ってくれって言われるくらいなもんかな? それならば、なんとかかわすことはできそう。
「しっかりして、あやめ!」
トイレの鏡に自分を映すと、頬をペチペチと叩いてから、仕事に戻った。
「こんにちは」
そんな悩める私の前に、タイミング良く現れた渋い声。
「木曽さん、助けてください!」
思わずそう言うと、木曽さんは目を丸くした。まだ、発車まで三分ほどの時間があった。
「不倫のことがバレて、同僚に脅されそうなんです」
腕時計にチラリチラリと目をやりながら、木曽さんにだけ聞こえる声で訴えた。
「はぁ……」
突然の私の申し出に、戸惑う木曽さん。発車時間まで残り数分、焦る私。
「木曽さん!」
木曽さんに助けを求めたところで、彼を困らせるだけ。頭ではわかっているのに、どうにかならないものかと、祈るような気持ちでみつめた。
「わかりました」
自分で助けを求めておいておかしな話だけれど、助けてもらえるとは思っていなかった。
「何も心配することはありません。仕事に集中してください」
そう言った木曽さんに、戸惑いの表情はなかった。黙ってうなずくと、時計を確認し、発車ベルを鳴らした。そのどさくさに紛れて、私の胸の鐘の音もなっていた。
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