出発進行

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 乗務時間は、運転する車両やその日によって異なるが、数十分から一時間半程度、同じ車両を運転し、また別の車両に乗り換える、といった形を一日複数回繰り返す。人間の集中力には限界があるため、一定のキロ数や時間を超えた業務は行わないように、スケジュールが組まれている。一日の乗務を終了すると、終了点呼を行う。乗務中の異常の有無や翌日の勤務スケジュールなどを確認し、問題がなければ勤務終了。 「お疲れ様でした」  今夜は、どこで食事をするのかな? 食事をした後は、どこに連れて行ってくれるのかな? あー、ケンさん! 早く会いたいよ。運転士スイッチをOFFにすると、頭の中はケンさんでいっぱい。普段は、男性に負けじと仕事をしている私だけれど、仕事から離れると、二十八歳の恋する乙女(まだギリギリ乙女?)なんだから!  十一月に入り、急に寒くなった。明日は祝日だけれど、私には祝日も土日も関係ない。お気に入りの服に着替え、化粧なおしをする。唇を艶っぽくプルプルさせて、上品でちょっぴり大人の香りを纏うと、準備万端。愛しのケンさんが待つ、カフェへと急いだ。関東急行、柊駅前にあるカフェ『シーザリオ』。ケンさんとの待ち合わせはいつもここ。カフェと言うよりは、昔ながらのレトロな造りの喫茶店。ドアを開けるとカランコロンとベルが鳴る。 「お疲れ様、あやめちゃん」  カウンター席でマスターと話をしていたケンさんが振り返り、私に笑顔を見せた。 「お疲れ様」  ケンさんの隣に座ると、マスターがコーヒーを淹れてくれた。注文、していないのに。 「もう少し、ここで時間を潰すから。コーヒーは、マスターから」  マスターに視線を送ると、「今日は、記念日でしょ?」と、目配せしてみせた。そう。今日は、ケンさんと付き合い始めて一年記念日。ケンさんもマスターも覚えてくれていて、うれしいやら、恥ずかしいやら。 「ありがとうございます」  一年前の今日、この場所で、ケンさんに私から交際を申し込んだ。ランチタイムにここに立ち寄ると偶然、休みだったケンさんがひとりで食事をしていた。 『もしよければ私と付き合ってください』  運命だ、と勝手に思った私は、その場ですぐに告白をした。 『ああ。オレひとりだし、いいよ』  告白したのに、『付き合う』の意味を勘違いされた。 『私、ケンさんのことが好きなので、付き合ってほしいって意味です』  冷静にもう一度、言い直した。ケンさんは笑いながら『いいよ』って、言ってくれたっけ。 「どうしたの? 顔がにやけているけれど?」  ケンさんに声をかけられ、現実に引き戻された。熱くなる頬を、慌ててさすった。
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