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ケンさんと付き合っていることは、マスター以外に誰も知らない。
『仕事がやりにくくなるから』
そのような理由で、口止めされているのだ。そんな状況の中でケンさんは隙を見て、頭を撫でてくれたり、そっと手を握ってくれたりする。秘密の交際をしているようで、普通に付き合うよりもスリルがあって楽しい。
「今日はこの後、予約している店に行くから」
正直、食べる物はなんだってよかった。重要なのは、誰と食べるか、だ。
「あやめちゃんは好き嫌いはないし、なんでも喜んでくれるから、助かるよ」
食事にプレゼント、ふたりだけの愛ある時間。ケンさんが与えてくれるものは、なんだってうれしい。まぁ、どちらかと言えば、お金で買えないものを与えてくれた方がうれしい。ケンさんの厚い胸板で抱きしめてくれたり、手を握ってくれたり、優しくキスしてくれたり。
「あ、そろそろ行こうかな」
え! もう行くの? 少し冷めてきたコーヒーを一気に飲み干すと、マスターにごちそうさまを言った。
「ごゆっくり」
不規則な勤務時間で、なかなか都合が合わせられないふたりの、貴重な時間。一分一秒たりとも無駄にはしたくなかった。ケンさんは優しくて、紳士的で、男女問わず人気がある人。気がきくし、マメな性格で、どんなに忙しくても毎日必ず連絡をくれる。誕生日や記念日も忘れず、こうやってお祝いしてくれる。でも、付き合って一年が経った今でも、メールアドレスしか知らない。電話番号も知らなければ、彼がどこに住んでいるのかも知らない。
「ケンさん、どこに住んでいるの?」
一年、付き合ったからいいよね? と、今まで聞きたくても聞けなかったことを口にした。
「実はオレ、実家暮らしで。この歳の男が実家暮らしって、なんとなく恥ずかしくて言えなかった」
「そう? ちゃんと働いているし、恥ずかしくないと思うよ」
前菜は八種の盛り合わせ。どれもこれもおいしそうで、なにから手をつけようか迷う。
「そう言ってもらえて、よかった。ほら、あやめちゃん、遠慮なく食べて?」
遠慮しているわけではなく、迷っているだけの私にも気を遣ってくれる。
「いただきます」
前菜から期待を裏切らないおいしさ。それに、ケンさんの笑顔があれば、他になにもいらない。
「そういえば、あの噂、聞いた?」
ケンさんが、思い出したように口にした。あの噂って、何? そう思いながら、首をかしげた。
「柊駅に夜、幽霊男が現れるって」
「幽霊男? 幽霊じゃなくて、幽霊男?」
「そうそう。ギリシャ彫刻みたいな顔の男が、終電近くになると現れるらしい」
「……なんのために?」
「ぼんやりと、線路を眺めているらしいよ。声をかけたらおとなしく帰るんだって。ふらふらしていて、立ち居振る舞いが幽霊っぽいから『幽霊男』」
「へぇー」
自殺する気なら、わざわざ終電近くに来ないだろうし。一体、なんの目的で? 幽霊男に興味はない。目の前のボンゴレパスタとケンさんの笑顔があればどうでも良かった。またケンさんの住んでいる場所を聞きそびれたけれど、ケンさんが私のそばにいてくれたらそれで良かった。
メインは、イベリコ豚と鹿児島黒豚のローストにグリルベジタブルを添えて。デザートは、イタリアンクレームカタラーナ。たかが付き合って一年記念日にこんなごちそうをしてもらうなんて。なんだか申し訳なく思う。ケンさんから『好き』や『愛してる』の言葉をもらったことはないけれど、その心遣いで愛を感じることはできた。
「食後のお飲み物は、コーヒー、紅茶、どちらになさいますか?」
おいしくて楽しい時間は、あっと言う間。もう飲み物で終わりだ。
「僕はコーヒーを。あやめちゃんは?」
「あ、紅茶で」
「紅茶に、オレンジを添えてもらっていいですか?」
「かしこまりました」
店員は、動じることなくそれに応じた。
「紅茶にはレモンじゃなくて、オレンジを入れるとフルーティでおいしいよ」
そんな細やかなところまで気遣ってくれるケンさんを、また好きになった。
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