出発進行

1/4
前へ
/35ページ
次へ

出発進行

「おはようございます」  今日も朝から元気よく出勤。担当仕業の札をチェックして、出勤したことを知らせる。当日の運行状況など連絡事項を確認する。重要な情報は手帳にメモするが、今朝は問題なさそう。 「おはよう、長野(ながの)さん。今日も綺麗だね」 「ありがとうございます」 「今度、ふたりで飲みに行かない?」 「運転業務に支障をきたすといけませんので」  先輩運転士の大町聡(おおまちさとし)に絡まれそうになりながらも、それをサラリと交わす。乗務前のアルコール検査は必須。前日に飲み過ぎて、アルコールが残るなんてことは、もってのほか。電車は、秒刻みのダイヤで運行する。身につける鉄道時計の補正も乗務前の大事な仕事。それと、身だしなみを整えること。駅は、たくさんの人たちと出会う場所だから。  関東急行、山際線と都市線。山際線は、三駅しかない短い路線。都市線は四十八駅ある路線。私は、主にこのふたつの運転区で運転士をしている。今日は都市線で一日、乗務を行う予定。出発二十分ほど前には、運転区で始業点呼を行う。前の運転士の引き継ぎを受け、行先表示や、列車種別を確認して運転を始める。 「おはよう」  前の運転士は、十歳年上の先輩、ケンさんこと飯田賢治(いいだけんじ)。良き先輩であり、良きパートナー。 「おはようございます。お疲れ様です」  挨拶をするとケンさんが優しく微笑み、私の頭をそっと撫でた。それだけで私のハートは鷲掴みされる。長身で、恵まれた体格。学生時代から水泳をしていることもあり、制服の下の鍛えられた身体に大人の色気を感じずにはいられない。要するに、私がベタ惚れしているのだ。普通の会社なら、女子社員で争奪戦になるけれど、女子が増えてきたとはいえ、まだまだ男子が多い鉄道会社。彼とすんなりとお付き合いできたのは、女子社員が少ないおかげだ。 「お疲れ様」  泊まり勤務のケンさんは仕事を終え、帰宅する。私は夕方までの乗務で、夜、食事に行く約束をしていた。三百六十五日プラス一日、毎日走る電車に合わせて働くから、不規則で、同じ日に休めないけれど、都合を合わせながら愛を育んできた。私とケンさんの間には常に電車があり、絶妙な距離を保って付き合っている。近くにいるのに休みが合わなくて、ゆっくりデートできないもどかしさ。仕事中に偶然逢えたときの、天にも昇るようなうれしさ。こんな付き合いの方が、すぐに飽きられることもなく、逆にいいのかもしれない。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!

59人が本棚に入れています
本棚に追加