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その当日
神さま、お願いします。
わたしをたすけて。
神さまはいない、と幸子は心の底から思った。何回も何回も祈ったのに。神さまだけじゃない。一度だってたすけてくれなかった、誰も。
幸子は、出勤して行った夫の後ろ姿を、リヴィングから塀越しにぼんやり眺めた。家から出るとき玄関でふいに、娘のことを口にした夫。
「沙來羅は八時から、学校じゃないのか」
踵を靴べらで革靴に押しこみながら、幸子と目を合わせることなく。そのさりげない口調。もしかして夫は気づいている?
「寝坊したみたい。さっき起こしといたから」
「そっか」
大丈夫、気づいてない。娘が朝食のテーブルに顔を覗かせなかった、そのことに対するちょっとした心配にすぎない。夫は知らないはず。よもや妻が娘に暴力をふるっているとは。
自分だってわからなかった。なぜ、かわいい娘の躰をふとしたきっかけで、ぶったりつねったり傷つけたのか。大事な一人娘の沙來羅の、腕や腹や太腿についたいくつもの痣を見るにつけ、自分自身、理解不能だった。
きっと鎖だ。思いたった幸子はキッチンから包丁をもちだす。自分も子ども時分、母親に虐待されていた。その頃はまだDVなんて専門的な単語はなかったし、家庭内暴力の実態も一般にいまひとつ認知も共有もされていなかった。でも、母親のあれはけっしてしつけや体罰などではなかった。「ごめんね」と泣きながら、殴る蹴るを繰り返す母。そのたびに心のなかで祈った。「神さま、たすけて」と何回も何回も。
連鎖する業なのだろうか。突然スイッチが入ったように昨日、気づいたら今度は自分が娘におなじことを繰り返していた。あれだけ自分はするまい、おなじ轍は踏むまいと頭では分別がついていたつもりだったのに。
やっぱり神さまはいない。階段を一歩一歩のぼり二階へ、包丁を手に向かい幸子はあらためて思う。呪縛──自分は虐待していた母親の亡霊にとり憑かれているのかもしれない。呪われた鎖につながれ、永遠に暴力のループに閉じこめられて。
ノックもせず、子ども部屋のドアを開ける。おびえた目の沙來羅がいた。幸子はムダだと、矛盾した言動だと知りつつ無心に祈っていた。
誰か、たすけて──と。
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