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朱い。
空が、朱い。
夕焼に染まった教室に、窓枠の影が格子状に伸びていた。
俺はぼんやりと空を見上げていた。
燃えるような朱色なのに、どこかうすら寂しい夕空だった。
秋を感じて久しい。
葉が落ちきった木々の向こうで、黒い鳥が急ぐように飛び去っていった。朱色がこれほど澄んで綺麗なのは、空気が冷えてきっているからに違いなかった。
しん、と辺りは静まりかえっている。
放課後だというのに、家路へと急ぐ足音も、ふざけあう声も聞こえない。この世界にいるのがまるで自分一人だけかのように、息が詰まるかと思うほどの静けさが空間を支配していた。
「唯」
不意に、耳の奥がずんと響くような低い声が聞こえた。
名を呼ばれ、俺はゆっくりと振り返った。
見慣れた長身がそこに立っていた。
「瀬川…」
俺は一瞬、その姿に囚われた。
だがすぐに目をそらす。
すがるように、また空を見た。
「帰らないのか、唯」
背後から抑揚のない声が聞こえた。
「ん…」
俺は目を伏せ、数瞬返答に困った。
「外、寒そうだろ」
めんどくて、と言葉を繋いで俺は黙った。
苦しい。瀬川との距離が。その声の低さが。
瀬川は返答しなかった。
沈黙が俺たちを包んでいた。
俺は必死になって空を見上げていた。ガラス越しに伝わる冷気が、火照った肌に心地よかった。
辺りは、本当に静かで、自分の早い鼓動すら瀬川に聞こえてしまうような気がして、余計に鼓動が早まった。
「カノジョと」
突然の瀬川の言葉に、心臓が跳ね上がった。
「カノジョと帰ったのかと思った」
鼓動がさらに早さを増す。壊れそうなほどに。
「カノジョとは」
喘ぐように、俺は明るい口調で返答した。
「カノジョとは、別れたよ。つい最近」
押し黙る瀬川。
「なんで。かわいかったじゃん、カノジョ」
「別に。好みじゃ、なかったし」
「…そっか」
また生まれる、沈黙。
何故、こんなに静かなのだろう。夕暮れ色に染まった教室いっぱいに、沈黙という名の何か重苦しくてドロドロしたものが満ちていて、押しつぶされてしまいそうだった。
朱色の濃厚な沈黙。
胸が苦しくて、今すぐこの空間から逃げだしたくても、瀬川の大きな身体が、それを許さぬかのように俺の前に立ち、俺を威圧していた。
不意に。
空気がぐわりと動いたかと思うと、強い力で肩が掴まれた。そして、唇に熱いものが重なった。
瀬川のそれだと気付くのに、時間はかからなかった。
抵抗しようと思わず上がった手は、瀬川の手に捕まり窓ガラスに押し付けられた。はっとするほど冷たく感じたのは、外の空気があまりにも冷えていたためか、それとも俺の手が熱く火照りすぎていたためか。
そのまま強く抱きすくめられ、その場に崩れる。壁と大きな身体に挟まれ逃げ場を失った俺は、壁に両手を縫いとめられ、再び口づけの嵐に翻弄された。
熱い舌が口内を犯していく。瀬川の唇にあるピアスが、俺の歯に当たるたびに鳥肌がたった。破裂しそうな心臓の音が、こめかみまでガンガン鳴り響いていて、眩暈のするような甘さに意識が麻痺する。
「…ゆい」
俺のベルトに手をかけながら、瀬川が俺を見つめる。一重の切れ長の目は情欲で恍惚とした色をうかべ、荒い息遣いがもれる薄い唇は濡れて光っていた。
朱色の陰影をたたえたその顔は怖いほどセクシーで、思わず瞳をそらしたとたん、堅くなりきったものが掴まれ、俺は悲鳴をもらした。
「…やめ…っ…! 瀬川…っ」
言葉だけの抵抗は空しく、始まる上下の動きに俺はたちまち高みへ引き上げられていった。声を漏らすまい、と引き結んだ唇に、瀬川の舌が割って入ってくる。甘い感覚が身体中を突き抜けて、力が消えていった。
「唯…」
懇願するような口調の声をもらすと、瀬川は俺の手を、自分の堅くなりきったそれに導いた。
ゆっくりと上下させるとすぐに先から零れてきて、ぐちゅりぐちゅりと音がし始めた。俺のそれを握る手の力も強くなる。
異なったリズムの淫らな音が、二人の荒い息遣いと絡み合って静謐な教室に響き渡っていた。
えろい。
たまらなく淫靡で、たまらなく気持ちよくて、泣き出したくなる。
「はっ…あっ…はっ…!…ん…っ」
導かれるまま、果てた。
気づけば好きだった。
名を呼ぶ低い声や、気だるげなまなざし。
ふとした時にふれた熱い手に、戸惑いを覚えるようになったのはいつからだろう。
友達とか、性別の違いとかそんなこと、悩んで悩んで悩み疲れて苦しんで、泣いたって叫んだって暴れたって吐いたって、消え去ってしまう事なんてあるはずもなく、ただ、好きという想いだけが身体の中を焼き焦がしていった。
瀬川に見詰められたかった。
瀬川に囁かれたかった。
瀬川に触れて欲しかった。
好きで好きで、たまらない。
「ゆ…いっ…」
灼熱に熱された鉄棒に乱暴に掻き回されるような激痛に知らず爪を立てた俺の手を、瀬川は片手で掴みあげて壁に押さえつけた。
萎えきった俺のものを荒々しく上下させて、涙でぐしょぐしょになった俺に噛み付くようにキスをする。
「っあァ…! んっ、ああっ…!」
痛いのか気持ちいいのか幸せなのか。
もう、何がなんなのか、わからない。
ぼやけた視界は、ただ一面の朱色だった。
血の色と、熱い高揚の朱。
瀬川の大きく長い影だけが、不規則な律動を繰り返していた。
「ゆい…っ」
「ゆい…っ」
「ゆいっ」
ゆい。
唯。
「唯。おい唯っ」
ぼんやりとして重い頭をあげると、傍らに人影がいるのに気づいた。
瀬川だった。俺はすかさず目をそらした。
「唯。お前よくこんなうるせぇ中で爆睡できるな」
見慣れた教室は、いつものように放課後のざわめきで満ちていた。秋の長雨が降り続く今日は、蛍光灯が点いていても薄暗かった。
「お前、今日も一日中寝てただろ」
こいつ最近寝てばっかなんだぜー、と瀬川は呆れるように隣にいる女に言った。
「えー、あれでしょー? ええと、寝る子はよく寝る、ってヤツ!」
女は小首をかしげて瀬川を見上げた。
「ばっか」瀬川は白い歯を見せて笑った。「寝る子はよく育つ、だろ」
「えーそだっけー??寝るからよく寝るんじゃン」
グロスで光る唇をつきあげて、女は瀬川を甘たるくにらんだ。
俺は二人の会話を無視して窓の外を見た。
股間が落ち着かなかった。膨張がおさまるよう心の中で念じながら、どうしようもなく情けない気持ちに泣きたくなった。
「そういや、唯」
突然呼ばれてびくりとなる。
「お前カノジョどしたの?」
「カノジョ?」
一瞬なんのことか解らなかったがすぐに思い出した。
「…別れたけど」
「えー!!」
瀬川よりも女の方の反応が大きかった。
「どうしてー!きょーこ、ちょーかわいかったのにぃ!」
「べつに…。タイプじゃないし…」
誤魔化そうとしたって、本当の気持ちが消えるわけないだろ。
じゃあ、明日な。
と言い残して、瀬川は納得のいかない様子の彼女をつれて教室を出て行った。
「きょーこちょーかわいそう!だって唯くんのこと本気だったんだよ」
「唯は理想が高ぇんだよ」
「じゃあどうして付き合ったのー? まじ唯くんサイテーっ」
「ばっか、ブスがほざくんじゃねぇよ」
「ムカつくぅー」
瀬川と彼女の会話が遠のいていくのを背で聞きながら、俺は降り続く雨を見つめていた。
瀬川に彼女ができてから、俺はよく眠るようになった。
いくら眠っても、睡魔が襲ってきた。ちょっと何かをしただけで、すぐに疲れて眠くなった。
けれど眠りは救いだと思う。
だって夢の中では、瀬川はいつも俺だけのものだから。
あいあい傘が一つ、校門へ向かっていた。
小さい傘からはみ出ている広い肩は瀬川だった。
他に人影はなかった。二人は立ち止まり、ほんの一瞬だけキスをして、そして笑った。
灰色の雲が厚さを増して、俺のいる教室を暗くした。
さめざめと降り落ちるのは、冷たい、針のような雨。
雨。
降りやまぬ、雨。
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