2章 花の憧憬

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2章 花の憧憬

 今日も、七助は花がたんまりと入った籠を担いで、江戸の町を練り歩く。 「花ぃ~~、花ぃ~~」  季節は春。籠の上の方には、桜や桃の花をたくさん詰めて、雛祭りに飾る家に届けばいいなぁと、客が声をかけやすいようにゆっくりと歩く。下にはたくさんの鉢植えや盆栽が入っている。 「ああ、そこの花売りのお兄さん」 「へい、何でしょ?」  ピタッと足を止め、声のする方を振り返る。そこにはスラッとした体形で、髷が少し乱れた美しい人が立っていた。甘く、ねっとりとした声。色っぽいな、と思わずじっとその人を見つめていると、クスッとその人は笑った。 「何か、ついてるかい?」 「え、あ、いいえ!」 「ふふ、桃の花を一つくれないかい。これからも咲きそうなものがあれば、なお良いのだけれど」 「へい、ちょっと待っててくださいね!」  客の要望に合った梅の花を探しながら、七助は客と話をする。 「……ところで、桃の花ってことは、雛祭りにでも飾るんですか?」 「あぁ、雛祭り用ってわけではないのだけどね、この季節になると、花が恋しくて」 「へえ」  珍しいお客がいたもんだ。 「この時期は桃の花や桜が綺麗だろう? 桜はもう少ししてから、花見で見に行った方がいいだろうし。桃は見に行くよりも、買って愛でた方がいいと思ってね」  花咲く季節になると、花が恋しくなるなんて。何だか、ここまで花を愛でる人間も、珍しいように感じた。 「お姉さんみたいに、花が良いっていう女も、最近じゃあんまり見かけないよ」 「へえ? 花はこんなに素敵なのにねえ」 「そうだねえ」 「ふふ。でも、お兄さんは顔が整ってるから、客が寄ってくるだろうに。ほら、今もこっちに向かって走って来る女がいるじゃないか」 「あ、あぁ……」  花売りをはじめ、商売事は伊達男が売ると良い、というのは昔からよく言うことだ。客が集まったあとは言葉巧みに客を乗せれば、買ってもらえる。七助は七人兄弟の末っ子で、他の兄弟が出稼ぎに出たり家の仕事を継いだりする中、祖父の商売である花売りを継いだ。というよりも、継がされた。お前のために花売りは空けておいた、と言わんばかりに。お前は兄弟の中でも顔が整っているから、女どもが寄って来る。だから、それで花を買ってもらえ。後はお前のやりようで何とかするんだ、と祖父は七助に言って聞かせた。好きで始めた商売ではなかった。 「じゃ、これお代」 「あ、毎度あり!」  けれど働かないと、おまんまを食っていけない。ともなれば、一生懸命に客に愛想を振りまきながら花を売るしかないのだ。 「ふふ、じゃあ、お兄さん。頑張って」  桃の花を買って行った人は、ゆっくりと長屋のある方へと消えて行った。それから七之助は押し寄せた女性客の対応をすると、気づけば花はほとんど売れた。商売上々だ。  いろんな客がいた。本当に花がほしいと言って買って行った人は、先ほどの美人と何人かの主婦や老婆。本当は花なんて好きでもないくせに、こうして近づいてきて適当に買って行く。ただ不思議だった。 「……これじゃ、花が可哀想だな」  こんなに綺麗に可愛らしく咲いてるのに、花が好きな人のところに届いた花は僅かばかりなんだろう。何だか寂しいものだ。商売的には売れるということだから良いことではあるけれど、何とも複雑な心境だった。 「さて……帰りますかぁ」  そうして、いつもの道を帰る。その道中、七助には一つ気になることがあった。ある長屋に差し掛かると、ふと七助は足を止める。その部屋は昼間だというのに薄暗く、人気がなかった。  ここは、いつもそうだ。ただ部屋には夜着である一組の掻巻が置かれているだけで、後は何だか埃っぽい。誰かが住んでいるのかさえも分からない。 「……人、いねえのかな」  だったら、着物布団が置かれているのは良く分からないし、人はいないことはないのだろう。ひょっとしたら、今外に出ているのかもしれない。いや、外に出るなら着物布団くらいしまっていくだろう。まさか、誰か死んでるんじゃないか、と七之助が考えていた時、ピクッとその掻巻が大きく動いた。 「ひっ!」  何か、いる。誰かいるとかではない。何か、いる。これが直感で感じたことだった。一体何が夜着の下に潜んでいる。七助は連子窓にぴったりと顔をくっつけて、目を凝らした。  夜着から、生きている人間とは思えぬくらいの青白い二本の腕がニョキッと飛び出した。七助はギョッとした。人だ。人がいた。そこで七助は、家にいたのが人であることを知った。  どんな奴だ。こんな昼にもなりそうだって時まで寝てやがる奴は。七助は目を凝らし続けた。それから着物布団から、少しボサボサになった月代頭の青年が顔を出し、ぬるりと体を出した。 「おおお……」  細くて、色がとにかく白い。本当に男か? まぁ、月代頭なんだから男だろう。おっかなびっくりになりながら、七助は目の前の光景をただじっと見つめていた。 「んん……」  くぐもった声で青年は、ウンと伸びをする。上半身は裸。透き通るような白い肌に桃色の胸の突起。どうやら下も、何もつけていないらしい。女みたいだ。声には出せなかったが、七助はそう思いながら目の前の青年の観察を続ける。それから青年はクアッと口を大きく開けて欠伸をすると、七助に気がついたのか連子窓の方に振り返った。 「ひっ!!」  目が合った七助が声を上げる。顔は幼いけれど、目がくっきりとしていて可愛らしい。 「……なに」  それから眠そうな目の前の青年が、ぽつりと七助に続けて尋ねた。 「お兄さん……ひょっとして、俺の噂を聞いて抱きに来たの?」  淡々と。眠そうで掠れた声だったけれど、はっきり青年は言った。それに噂の存在を七助はここで初めて知ったから、良く分からない。 「えっ……?」  どういうことだ、と七助が何度か瞬きをする。抱きに来た、とは。男色じゃあるまいし、何を言ってるんだこいつはと内心笑いが出た。 「だから、俺を抱きに来たのかって聞いてるの。……俺は、ここでそういうことをしてるから」  冗談を言っているようには、聞こえなかった。 「そ、そういうことって、本当に……」  すると、青年がため息をついた。 「――ねえ、立ち話も何だし、入ってきたら?」 「え、良い、のか」 「どうぞ? さすがに腎水臭くはないと思うけど」 「……」  これは本当だな、と七助が今度はため息をついた。 「じゃ、お邪魔します……」 「どうぞ」  家に入ると、そこは埃っぽくて生活感もまるでない家だった。搔巻布団が一組だけ。後は何もない。そんな着物布団をそっと体に被って、青年はまっすぐ七助を見つめていた。 「ここに、住んでるのか?」 「住んでるというか、寝床にしてるだけ」 「へ、へえ……」 「寝てると、猛りが収まらない男どもが勝手に俺のとこに来て、抱いていく」  それから青年は、幸彦と名乗った。幸せな男。そんな大層輝く名を貰っている本人は、明らかに体を売って生計を立てている様子で、薄暗い長屋の一部屋で暮らしているようだった。幸せからは、何だか程遠い。 「どうして、こんな暮らししてんだよ」  仕事なんて、探せばいっぱいあるだろうに。七助が尋ねると、何がおかしかったのかクスクス笑いながら幸彦が答えた。 「どうして? これじゃなきゃ、金の稼ぎ方が分からないんだよ。陰間上がりだから」 「か、陰間……っ?!」  陰間上がり。男に対して体を開くのを引退した者だ。大体若い少年や青年が男の相手をする。 「そ。体で稼いだ方が、俺にとっては早いの。それに、そんなに長く生きれる気もしないし、ちょうどいいでしょう?」  やけに人生悟ったような物言いに、七助は待ったをかけた。 「それはどうか分からねえよ? 生き方の一つや二つ変えてみたら、何か変わることだってあるだろ?」 「こんなになって、今から何を変えろって言うんだよ。……何なら、お兄さん試してみる?」 「はっ?!」 「俺、陰間してた頃は結構いい体してるって褒められたんだ。今も、だけどね」  幸彦が七助の手に自らのものを重ねてきた。確かに、綺麗でしっとりとした肌をしている。女みたい、と思えばそうなんだろう。 「ねえ、どう?」  幸彦の指がスルスルと、七助の指に絡まってくる。 「気持ちいいこと、したくなってきた……?」 「え? いや、別に……」  手つきが次第にいやらしくなる。それに加えて、幸彦のなまめかしい息遣いにドキドキしてくる。 「ちょっと……」  指の股をいやらしく撫でたり摩ったりしてくるので、七助は顔を赤くしながらそっと手を離した。 「ち、違ぇ! 別にただ、誰か住んでるかも分からねえ家見かけたから、通りかかっただけだ!」 「へえ? だとしたら、お兄さん運が良い。 そうだ。出会ったのも何かの縁。一回タダでやってあげてもいい」 「そ、そういう問題じゃねえよ!」 「ええ? じゃあ、どうしたらしたくなる?」 「だから、そういう問題じゃねえって言ってるだろう!」  何とかして、ここからいなくならないと。七助は必死に中身のない頭を働かせたが、何一つ考えは閃かなかった。どうしよう。弱ったな。考えていた時だ。  ぐぅ、と幸彦の腹が鳴った。 「あ、お前。お腹減ってるのか」 「え、ぅ……」  幸彦が羞恥に顔を真っ赤にして、ギュッと腹を押さえた。力を込めて腹を押さえる度に、ぎゅう、ぐううと腹はより一層鳴った。 すごい腹の音だ。それを聞いた七助は大きな声で笑った。その笑い声を聞いた幸彦は背を丸めて小さくなった。 「――馬鹿だなぁ。そんな押さえたって、腹は鳴るときゃ鳴るんだよ」 「ええ……っ」  七助が立ち上がった。 「飯、食いに行こうぜ」 「え、でも……」 「でも?」 「俺、お金そんなに持ってない……」  幸彦は体を売って生計を立てているせいか、実際の稼ぎはそうでもなさそうだった。一日生きていくので精いっぱいで、食事だって満足にできないだろうということは、七助にも分かった。 そんな心配をしている幸彦の肩に、ポンと七助が手を置いた。 「気にすんな。俺が奢ってやる」 「えっ……」 「ま、良いから良いから。天麩羅載った蕎麦でも食いに行こうぜ!」  幸彦がゴキュッと音を立てて唾を飲み込んだ。きっと今頃は、その天麩羅蕎麦を想像したことで、口の中が唾液でいっぱいなんだろう。七助はおかしくなってまた笑った。 「腹減ってんじゃねえか!」 「う……」 「いいから、さっさと着るもん着て、行くぞ」  幸彦が着物を着て、それからすぐに二人は蕎麦屋に向かって歩いた。蕎麦屋に着いて、店に通されると思い思いの品を注文する。けれど、勝手にこれ、と頼んで良いものだろうか。幸彦はためらっているようだった。 「あ、あの……」 「うん?」 「て、天麩羅蕎麦……本当に頼んでも、いいの?」 幸彦が不安に少し身構えていると、七助は笑って幸彦の肩をポンポンと叩いた。 「気にすんな! 好きなの食って、腹膨らませろ!」 「え、いいの……?」  予想に反したことを言ったらしい。目の前の幸彦はただ目を丸くして驚いていた。 「良いって言ってんだろ! 気にすんな! 俺の前で遠慮はするなよ」  きっと、その商売をしている時は客から碌な対応をされなかったんだろう。食事だって、ちゃんと食べさせてもらえないほどに。だから七助は、幸彦にまずはお腹いっぱいに腹ごしらえをしてほしいと思ったのだ。 「じゃ、じゃあ……天麩羅蕎麦、食べる」  七助は、嬉しそうに言う幸彦の背を優しく撫でた。 「食べな食べな! ついでに深川飯の握り飯も食っとけ」 「い、いいの……?」  ますます幸彦の表情が明るくなる。 「お腹空いてるんだろ? 遠慮するなって」  お前はもっと食わなきゃダメだ。そう言って、深川飯の握り飯も注文した七助を、幸彦は穏やかに見つめた。 「あ、ありがとう……」  一方の七助は、食べ物一つ奢ってやるのに、嬉しそうな幸彦の表情が印象的だった。天麩羅蕎麦にワクワクして、口を涎でいっぱいにしているんだろうと思うだけで、こいつは何て純粋なんだと思った。あぁ、でもやることはやるのか……ってことは、純粋って言葉は倒錯なのか、否、と堂々巡りに事を考えた。  その後でもう一つの、幸彦にとっての重大な問題についてを考えてみる。 とにかくこいつを今の暮らしから救い出さないとダメになる、とも思った。男に抱かれるばかりで稼ぎもままならないとなれば、きっとこの先良いことなんて一つもない。早くこいつを何とかしてやりたいと店の壁の一点をじっと見つめながら考えていた。  お互いの食事が運ばれてきて、各々口に入れた。幸彦の頼んだ天麩羅蕎麦は海老が二尾載っていて、衣が蕎麦のつゆを吸って、甘じょっぱそうで、美味しそうだ。衣の油がつゆの上でキラキラと光っていた。深川飯の握り飯を幸彦から一つ分けてもらったが、なかなかに美味い。あさりの食感とあさりの出汁が利いた米は噛めば噛むほど味が出る。幸彦は蕎麦と握り飯を夢中になって頬張っていた。 「うまいか?」  かけ蕎麦を頬張りながら七助が尋ねると、幸彦は嬉しそうに目を輝かせて言った。 「うんっ……!」 「良かったな」  何て嬉しそうな顔をしやがる。米粒までつけて。 「米粒、ついてるぞ」 「ん……」  七助がそれを取ってパクッと口に運んだ。そのしぐさがあまりに自然で、幸彦はじっと見つめていた。 「あ、そうそう。俺思ったんだけど」  ふと七助がこぼした。 「な、なに?」 「……お前さ、俺の仕事手伝ってくんねえか?」  まさかの提案に幸彦は目を丸くする。 「え……」 「お前さ、体でその……稼いでるって言ったろ? それでも、稼ぎが足りないから飯食べないでることが多いんだろう? それ続けてたら、あっという間に死んじまうぜ?」  幸彦が俯く。  現実を突きつけてしまって申し訳ないが、そういうことだ。できれば、幸彦にはもっと長く生きて人生を楽しんで欲しい。だからこそ、俺にできることをしたい。七助はある提案をする。 「だから、俺んとこで働け。良い稼ぎになるかって言われると分からねえけど……少なくとも、お前の今の状態よりはうんと良いと思う」  幸彦は、コクッと頷いた。その日から、七助のところで幸彦は世話になることになった。家は江戸の町から少し離れていて、作業小屋のような家だった。  朝は早くて、体も頭も覚めないままに動いて花を売るための準備をする。 「大丈夫かよ?」 「ん……眠いけど、頑張る」  朝が早いのは想定外だった。幸彦は眠い目を擦りながらフラフラと起き上がった。 「そうか? なら、眠気が覚めるかもしれない、そんな光景をお見せしよう」 「え……?」  幸彦を連れて七助がやって来たのは、家の裏だった。ちょっとした納屋で、七助が扉を開くと、そこには朝摘まれたばかりの花や農家から買い取ったたくさんの花が部屋をびっしりと埋めていた。 「うわぁ!」  何て綺麗なんだ。幸彦は一瞬にして心を奪われた。こんなにたくさんの色とりどりの花を見たのは初めてだ。良い香りもする。 「……入っても、いい?」 「どうぞ?」 「うわぁ、はは! すごい!」  ワクワクしながら、花で埋まる倉庫を見つめる幸彦は、とても可愛いと七助は思った。 「綺麗だろ?」 「うんっ……!」  眩しく輝く幸彦の笑顔。お前も綺麗だって言えなくて、七助はただ幸彦に見惚れていた。 「今日はその花籠二つ売れれば上々かな」 「二つ、だけ? こんなにあるのに?」 幸彦は不思議がった。 「んーー、まぁ、ここにあるの全部売れたらいいけどな」 「ふぅん……」 「ま、いい。いつも通りにいこう」  そう言って、二人は江戸の町に繰り出した。七助は天秤棒を持って、幸彦は背中に花籠を背負った。  江戸に着いて、七助が馴染みの道を歩いていると、顔の整った男二人が花を売っているとたくさんの女性が集まって来た。 「その花、一輪おくれよ!」 「私も!」  新規の客にご贔屓筋の客まで、おしくらまんじゅう状態だ。 「七助ぇ~~! あたいに綺麗なの一つ売ってよ!」 「ちょっと、そこの綺麗な子誰だい?! え、幸彦くんって言うの? じゃあ、ゆきちゃんね」 「ゆきちゃ~~ん!」  寄ってたかってもみくちゃにされた。もう、売れる花も少なくなってきた。 「すごいな……毎回こうなの?」  幸彦がその様に驚いて、ぽつりとこぼした。 「ま、まぁそうだな」 「大変……」  また家の方に戻って午後からまた一儲けかなぁ、と七助が考え込んでいると、そこへ小さなお客さんがやって来た。 「あ、あの……」 「はい?」  一人の小さな女の子だ。まだ言葉もたどたどしさがあった。 「お花、一つくだちゃい」  偶然一つ、綺麗な白い百合が残っていた。それを幸彦はその子目線にかかんで渡した。 「どうぞ」 「うわぁ! しゅっごい、かかぁ!」  傍にその子の母親がいて、ふと口を開いた。 「何だか賑わってる花屋さんがあるって聞いて、気になったみたいでねぇ。ずっと町を歩き回って、絶対に買ってやるんだって聞かなくて。でも、少し遅かったみたいだね。お花も売れてしまって」 「あ、そうだったんですか」  その子の代わりに、母親は花の料金を支払った。 「でも、まるでこの子を待っていたみたいに、一輪だけ百合が残ってました」  すると、母親は目を少し丸くしてから微笑んだ。 「ふふ。そうだね。一輪でも買えただけいいかな……ねぇ?」 「うん! お花屋しゃん、あぃがとう!」  その時の、その子の笑顔を見た時に、幸彦は心がぽかぽかと温かくなった。 「どういたしまして」  幸彦は笑顔でその子を見送った。  それから幸彦は花屋の仕事も慣れてきて、七助との暮らしにも慣れてきた。 そして次第に、七助への想いも募っていくのが分かった。 「なぁ、幸彦」 「うん?」  七助が幸彦の隣に座った。彼が近い。不思議な感じだ。今までは、そこまで気にも留めていなかったのに。この距離感がむず痒い。 「仕事は慣れてきたか?」 「うん。すごい楽しいなって、思う」 「本当かい?」 「うん。やりがいを、ものすごく感じる。……できることなら、これからも、続けたいなって」 「そっか。そう言ってもらえて嬉しい」  やりがいを持ってもらえるということは良いことだし、働くためには大切なことだ。これで幸彦が体を売る商売を辞めてくれたらと七助は願った。 「これからも、うちで良かったら居て良いからな!」 「あ、ありがとう……」  それからしばらく幸彦は七助と花売りをして、町でも有名な花売りになった。 ♢  けれど、その幸せもすぐに終わってしまうことなんて、幸彦は予想もしなかった。それは突然に空を引き裂く雷のようで、空を裂いてから激しく雨が降るように悲劇を運んできた。  ある日、町で花を売り終わって、少し休憩しようと七助と分かれ、江戸の町を幸彦一人でふらついていた。 「おい、てめえ、幸彦か」 「え……」  聞き覚えのある声に、幸彦は立ち止まった。頭から血の気が引くようで、また脚が竦む。 「ぎ、吟……」  吟。ガタイの良い男で、気性の荒い性格だった。陰間上がりの幸彦を初めに抱いて、慰めてきた男だった。それからすっかり幸彦はその吟の紐のようになっていたのだ。 「最近めっきり見かけねえと思ったら。何してやがった」 「え、あ、別に……」  言葉が思うように出てこない。吟に乱暴な手つきで腕を掴まれると、そのまま幸彦は連れられて吟の住処に押し込められた。 「んっ……!」 「てめえ、まさか最近めっきりご無沙汰とか言わねえよな?」 「え……っ」  吟が、これから何をしようとしているのかが透けて見えた。嫌だ、と逆らってはみたけれど、吟の強い力を前には抵抗の意味を持たない。 「陰間上がりで、男の味を覚えてるてめえは、男なしじゃ生きてけねえだろ」  そう言って、荒々しく幸彦の着物を剥ぐ。 「ひっ、やだっ、やめて……!」 「何嫌がってんだよ」  必死に幸彦は首を横に振りながら、褌にかけられた手をギュッと掴んだ。 「いやっ、したくないっ」 「何でだよ」 「嫌なのっ、したくない! な、慣らしてもないし、もう、もう……こういうことはしないって決めてたんだ!」 「はぁ?! 馬鹿言ってんじゃねえぞ!」  バチンと乾いた音が響いた。 「ひ、ぅぐ!」  幸彦の頬を思いきり吟が引っ叩いた。 「てめえは、女なんだよ。男がいねえと、何にもできねえただの卑猥な女と変わらねえんだ!」  力が抜けていく。違う。俺は男だ。確かに、男がいないと何もできない。もう、男しか愛せなくなってしまった。それでも、俺だって商売もできるんだ。花を売って、いろんな人の笑顔を見ることだって。そう思ったけれど、口には出すこともできず、ただ歯を食いしばって涙を流すしかできなかった。  そのまま乱暴に吟に抱かれた。愛撫なんてされるわけもなくて、ただ下をいちぶのりを使って解して、適当に柔らかくなったところに硬くなった雄を突っ込んできた。 「んっ、ぐ、あ、ひぅ……ぉっ」  久々に内側をこじ開けられた感覚は、とにかく不快だった。気持ちよくない。嬉しくない。今までに湧いたことのない感情が次から次へと湧いてきて、苦しくて仕方なかった。何で。何でこんな風に感じるの。あぁ、早く帰りたい。七助のところに。七助。七助……  好き。そう伝えたら、気持ち悪がられるよな。こんな、ごろつきの肉棒を咥え込んで善がってるような男の何が良いんだ。そう、俺は男なんだ。女じゃない。可愛くもないし、美人なんかでもない。悔しい。何だか、ますます惨めだ。  行為が終わってから、そのまま捨てられたように床に寝かされた。吟は気づけばいなくなっている。いつもこうだ。終わったら、そのままポイ。それがあいつだった。  体液が、秘孔から零れる心地がする。気持ち悪い。やっぱり、自分にはこういうことしかできないのかもしれない。七助の家には、帰れないな。どうしよう。適当に着物を着ると、ふらふらとある場所に向かった。  芝神明で、突っ立った。神社の前の広く大きな道。そこには自分と同じように、陰間だったであろう男たちが立っていて、常客の男を見つけると一緒に歩いてどこかに行ってしまう。芝神明前は男たちが春を売っていた、そういうところだった。それで稼いで、生きる。結局そこからは抜け出せないのだ。夕時だったので、そういうことをするためにと集まった人間はかなりいる。 「お、見知らぬ顔がいるなぁ」  幸彦は知らない親父に話しかけられ、男に連れられて宿屋に入ると、そのまますることをした。 「ん、ぅ、あっ、あぁっ……!」  幸彦はすべすべとした白い尻を浮かせながら、男のものを後ろで咥え込んだ。下は先ほど吟としたから、解れて具合も良かったらしい。男は気持ちいい、と何度も口にした。女みたいに善がると、男は喜んだ。だったら女を抱けばいいだろうと幸彦は内心嘲る。でも、男じゃなきゃいけない理由が、何かしらあるのだろう。 「もっと喘いでいいんだよ」  勃起したての肉棒をギュッと握ると、男は扱いた。 「あ、ん、ダメっ、出る、出ちゃうぅう……!」  ビュッと勢いよく溢れた白濁と、強い快楽に秘孔はキュッと締まる。少し男が腰を振ると、締め付けに耐えかねて、すぐに吐精した。 「よかったよ、またよろしくね」  男はそう言って、すぐにいなくなった。  その日から、神社の前に立っては男と寝るのを繰り返す日々がまた始まった。苦しくて、自分に嘘をつきながら過ごす日々がこんなに辛いなんて。そんなこと、今まで感じなかった。七助との生活に、強く憧れていた。一度幸せに手を伸ばして、僅かばかりにその手が触れた。もう手放したくないと思った。けれど、不幸な体質のせいか、それはすぐにあっけなく離れていってしまった。気づけば、幸彦は一人長屋で泣き出していた。 「いやだっ……こんなの、嫌っ」  辛い。どうしても、この暮らしから抜け出せない。抜け出そうと思うと、誰かが己の手を引っ張ってきて、そのまま元いたところに帰そうとしてくる。帰されて、知らない男の肉棒を下で咥え込んで、善がっている。  雨が降り始めたようだ。その雨は次第に強まって、激しく音を立てていた。そろそろ、梅雨だろうか。幸彦はムクッと起き上がると、何を思ったのか、笠もつけないで夜の雨降る江戸へと一歩踏み出した。すぐに体が雨水に濡れて、重くなっていく。涼しいなぁ、と思っていた雨も、次第に寒さを覚えるくらいに冷たさを増した。  ピタッと足を止めたのは、川にかかったある橋の上だ。雨のせいもあって、川の水が増え、すごい音を立てて流れていた。 「……」  橋の手すりにそっと手をかける。もう、することと言えば一つだけだ。  身を投げて、楽になる。一瞬見た夢のような暮らしも、もうこんな自分じゃ叶わない。一生、陰間であったことは引きずったまま、男を抱きたいと思う人間に抱き潰されて、死んでいくんだ。それが、自分の生き方だと幸彦は思った。  幸彦。  幸せになってほしい。そう願って名付けられた名前。けれど幸せからは程遠い実際の自分。何だか気持ち悪い。幸せが名前に入ったから、幸せを願いすぎている欲深い男と思われたから、こうして不幸で、ずっと湿っぽくて暗い暮らししかできないんだ。ちぐはぐで、気持ち悪い。消えてなくなった方がマシ。だから、いなくなろう。さようなら、幸せになれなかった俺。来世では、幸せにね。  でも、どうして。 どうして最期の時まで、彼のことが――七助のことが頭から離れないの。恋しいって、思ってしまうの。この俺を、救って欲しいだなんて。幸せに、してほしいだなんて。苦しさに、涙が一層溢れる。未練を残すな。もう、覚悟を決めろ。  手すりをよじ登るようにして、身を投げようとした時。何かがすごい力で幸彦を引っ張った。 「んわっ……!」  ズテッと思いきりに転んだ。けれど、頭は打ち付けなかった。見ず知らずの誰かに抱きしめられているようだ。その力はとにかく強くて、身動きがまるで取れそうにないくらいに抱きしめてきて、引き寄せて離さない。 「な、に……?」  何だろう。この温かさ。冷たく雨が降っている中でも、何故か後ろから抱きしめられるだけで何だかあったかい。すると、震えながら後ろにいた人が声を上げた。 「お前、馬鹿じゃねえのか!!」 「えっ……」  抱きしめてきたのは、紛れもなく七助だった。 「なに、死のうとしてんだ!」  心が温かくなったと同時に、七助にこんな姿を見せてしまったと後悔が強く湧いてきた。 「捜したんだぞ!」  怒気を含む声音で、けれどその声は震えていた。 「ふ、ぇ……」  泣いてるのか。どうして。何で七助が? 「お前っ……突然いなくなるから! この仕事、気に入ったって、やりがいがあるって言ってたから、俺……お前とこれからも、ずっと仕事ができるって思ってたのに! 何でいなくなったんだよ!」  七助は続けた。  「落ち合おうと言った場所に戻ってきたら、お前いなかったろ……しばらく待った。でも、お前はいつまで経っても現れなかった。慌てて辺りを捜したよ。お前の家も。でも、いなくて……何かあった、ってすぐに分かったけれど、手がかりもないんじゃ、どうにもできなかった!お前を、ずっと捜してたんだよ!」  そうだったのか。幸彦はこの時に七助がどれほど捜してくれていたのかを知った。申し訳ない気持ちと、そこまで捜してくれたことに嬉しくて、でも切なかった。 「なぁっ……もう、独りで抱え込むなよ! 何かあれば俺に言えよ、俺を頼れよ!」  その七助の強い言葉に、幸彦はワッと激しく泣いた。けれどその涙や嗚咽は雨の音に掻き消えて、雨に流れていった。  それから七助の家で二人は恋仲でもないのに、抱きしめ合っていた。 「寒く、ないか」 「うん……」  あったかい。あったかくて、良い匂いがする。花のような、甘い香り。トクントクン、と動いてる心の臓の音。  雨はまだ降っているようだった。けれど、先ほどに比べたら降りは少し弱くなったらしい。 「ねえ。……何で抱きしめてくれるの?」 「え?」 「……寒いなら、火鉢焚いたっていいのに」  その言葉に七助は黙っていた。 「俺、陰間上がりって言ったでしょ。それに、元々……俺、男が好きなの」  幸彦の声は震えていた。それでも、と淡々と告白を続けた。 「気持ち悪いでしょ? 男が好きで、その気になれば股だって開く。卑猥でしょ……不気味でしょう……?」  そう、男を好きになるなんて普通じゃおかしい。男に暴かれたこの体は、元々の性癖と相まって、男との相性も悪くない。むしろ、良い。だから汚れているこんな男が、七助のところにいること自体、考えられないことなのかもしれない。 「いつか、君のことを好きになるかもしれないんだよ。俺のことを抱いてほしいって、思うくらい」  だから、いっそ気味悪がって、嫌いになって追い出してくれていい。ここまで言ったら嫌いになってくれるだろう。そうすれば、何かすっきりする。だって、きっと。もう俺は七助のことが好き、だから。 「……お前、そんなんで俺がお前のことを嫌いになると思ってんの?」  キュン、とした。七助がさらにきつく幸彦を抱きしめた。 「ぅ、く、苦しいよ……」 「苦しいくらいが、ちょうどいいかもな……いいか? よく聞けよ」 そっと耳元で七助が言った。 「俺の方が、もうお前の……幸彦の虜だって言ったら。幸彦は何て言うんだ? どうする?」  心の臓が、とびきりにうるさかった。もう、これじゃ聞こえちゃう。顔を真っ赤にしながら、幸彦は俯いた。 「お~~い」 「ばか……もう、いや」 「ええ?」  何だろう、こんな日をずっと夢見ていた気がする。 「もっと……だ、抱きしめて」 「あぁ」  今日が、人生で一番幸せな瞬間かもしれない。幸彦はうっとりと目を閉じた。
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