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「教授は、あの人の何なんですか」 「おお、藪から棒だねえ」  部屋に入るとデスクに座っていた中井教授はパソコンから顔をそらし、眼鏡を人差し指で押し上げた。 「参考文献リスト、読んだよ。フィードバックと追加した方が良い資料は書き込んであるから、持って行ってね」 「あ、はい。って違くて、答えてください」 「僕は、彼にとっての何者でもないよ。残念ながら。彼を取り巻く顔なき群衆の一人に過ぎない」 「嘘だ。…県美術館で、仁藤さんの素描を見ました。あれ、中井教授ですよね?」  ガラスケースに閉じ込められていた紙の中から飛び出してきたようにその人物は無邪気に笑う。 「僕が美術部の部長だったとき、入部してきた新入生の柊吾と初めて会った。…あ、信じてない顔だね。教壇の前で何百人の学生相手に経済史を説いてる教授の姿が、僕の全てではないんだよ」  もはやブックスタンドと化している例の不可思議な埴輪を中井教授は懐かしそうに見やる。 「まさかそれ」 「力作でしょう? 僕の作品」 「ああ…」 「柊吾の絵を初めて見たとき、一瞬で打ちのめされたよ」 「うん、でしょうね」 「失礼ですね。まあいいや、とにかく神に与えられた確実な何かを彼は既に持ってた。絶対に何者かになるんだと、理屈なしで認めざるを得なかった。私は彼に、そして彼の才能に、強く惹かれていったよ。そして、彼も同様に僕を必要とした」  やっぱり。恵は肯定の意味で頷く。 「でも結局はだめだった。歩む道が、前を向く方向がちょっとずつ違って、引き留めたり突き放したりするうちにお互いの距離がわからなくなってしまった。よくある話さ。だから私は今も遠くからこうやって何も出来ず、取り巻きとして彼を眺めることしかできない」  仁藤の過去に、あるいは中井教授に嫉妬したくてここまで来たわけではない。誰にだって生きた分の痕跡は存在する。それを今更変えようはない。  でも。 「一つ、訊いても良いですか」 「何だい」 「教授は、仁藤さんの病気がわかって、どうしたんですか」  ぱっと中井教授の瞳孔が開いた気がした。 「君って時々、得体が知れないね。あ、褒めてないよ?」 「わかってます」 「僕はね…ああ、彼が描くのをやめさせようとしたんだ」  静かな声を聞いて、恵はぐっと拳を握った。 「…ずるいですね。教授はとてもずるい」 「ありがとう」 「俺も全然、褒めてないです」 「わかってるよ。でも、嬉しいんだ。僕は、誰かからのその言葉を、ずっと待っていた気がするよ。…若かったんだ。僕は今よりずっと若くて未熟で、彼を自分だけのものとして、僕の鳥籠にしまっておきたかったんだ。危ないから、病気だからっていう陳腐な免罪符で」 「…今なら。もし四十三歳の中井教授が四十一歳の仁藤さんと出会ったとして、病気のことがわかったなら、どう言いますか?」  とても悲しげに眉を落とす表情を、じっと恵は見ていた。 「…今でも、僕はきっと彼の筆を奪うだろうね」  震えた声を聞いて、恵は音もなく扉を開いた。 「なんで教授が、俺を仁藤さんの家に行かせたのか…今なんとなくわかった気がします」 「言葉にしようか。君を彼の元にやったのは健康で若くて、未来の選択をいっぱい持っている君が側にいることで、彼が君に嫉妬すればいいと思ったんだ。寂しく絵を描いてる自分自身の人生を惨めに思うようにね」 「それでまた教授の元に戻ったら万々歳、ってわけですか?」 「そんな大それた野望はないよ。ただね。少しでも、後悔して欲しかったんだ。あの時の彼の選択を。僕を捨てて絵を取ったことを」 「お二人の過去に何があったかなんて、俺はもう知れません。でも、教授が仁藤さんにとって特別な存在であったことだけは、確かです」  あの日、泣きながら全部を失っても絵を取ったと奥歯をもぎ取り吐き出した仁藤。多分それは、本人にとって容易い決断ではなかったはずだ。  だからそうまでして選んだ絵にだけは裏切られまいと、あんな行動に結びついてしまうのだ。  自分に嘘はつけない、まっすぐな仁藤を、この目で恵は見てきた。  中井教授と仁藤が過ごした時間に比べたら、ほんの一瞬だとしても。 「ああ…だとしても、許せないんだ。好きだから、愛してるからその人の全てを欲しいと思う。一番じゃなくていいだなんて言えるわけない」 「それ、違いますよ。本当にその人が好きなら、自分が一番じゃなくても許すことが出来るはずです」 「君はそのつらさをまだ経験してないから、言えるだけだ」 「それはその通りです。だから、試してみますね。俺には、できるのかどうか」  恵は挑戦的な笑顔を作った。 「…僕は、君を派遣したことを今この上なく後悔しているよ。あ、今度は褒めてるんだよ」  「…ありがとうございました」  とりあえず自分が、中井教授とは別の選択をできてよかったと思った。  それが知れただけで今は十分だ。  AがだめならB、BがだめならC。  そうやってひとつひとつ実行していって、いつか仁藤の正解にたどり着ければ、それでいい。
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