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12
梅雨が終わると仁藤はどっと忙しくなった。
着々と十月の個展に向けてスパートをかけている。久しぶりの国内展示、さらに企業バックアップということで、各方面一丸となって力が入っているとは、担当している佐藤に聞いた。
以前家に来ていた、男の方だ。
ちなみに女は皆川という。実際何度か見かける打ち合わせは回ごとに緊張感をどんどん高めていた。
反動なのか、夜遅くベッドに入る時決まって仁藤は背中を撫でろとせがむので、そうしているうちに一緒に寝頻度も多くなってしまったのは良いのか悪いのか。
恵の男としての欲求はもちろんあるわけで、こちらからすれば寺で修行を積むような生活だった。
リビングで仁藤を見つけると大きい声で名前を呼んだ。
「仁藤さん! 俺、決めました!」
「なんだ、やっすいミュージカルみたいな決め台詞だな」
「しーんぱーいないさぁあーっ」
ご要望にお応えして腹から発声しながら一回転する。観客はとても嫌そうに片耳を塞いだ。
「やめろ。茶番より早く話せ」
「俺、今選考進んでるところ最後にしてきっぱり就活やめます」
「…は? まだ本番の夏があるんだろ?」
「イエス。でも内定もらってるとこのどこかに行くってもう返事しちゃいます。そうしたらもう二次面接だのなんだのに時間取られないし、その分仁藤さんのとこ通えるし」
「一時の感情に流されて人生踏み外す模範解答だな、お前は。よく高校生でパパにならなかったよ」
「いやいや聞いてください、そういう浮ついた気持ちじゃないんですよ。俺今まで、どうでもいいことを疑問に思いながらも頑張って特別に思うようにしてた。大手企業入るとか生涯年収とか。でも本当はどうでもいいと思ってることってどの角度で見たって所詮どうでもいいんです。今やりたいことなんて無理矢理探したって見つかんないの!」
「まあそうだろうな」
「なら、どの会社選んだって一緒じゃんって。じゃあ俺の一番譲れないものって何? って思った時に、それって仁藤さんなんですよ」
「ほらやっぱり着地点ふわっとしたぞ」
「あれ、そうかも?」
「もっと早く気付け馬鹿」
「いや、やっぱなんか違うんだよなー。単に仁藤さんとラブラブしたいとか一秒でも一緒にいたいとかそういうことでやめるんではなくて、いやもちろんそういうこともしたいんだけど」
「するかボケ」
軽く蹴りを入れられるが本気じゃないから痛くない。
「あ、もちろん仁藤さんの気持ちありきですからね? 別に俺のこと好きになれとか言ってるんじゃなくて、あくまでも俺の気持ちに対する俺の行動なだけで、仁藤さんはいつも通りの普通でいてください」
「当たり前だ」
「でも何ていうかな、一番を手放さない覚悟ができたっていうか、それが何かわかったっていうか。うん、俺にとっての仁藤さんって、仁藤さんにとっての絵なんだ」
びっくりしたように瞳を一度まばたいた仁藤の頬が、みるみる赤くなった。
顔を腕で隠しながらしどろもどろに視線を泳がせる。これは、照れているのだろうか。
初めて見る表情だった。
好きと告白したときよりももっと明らかな動揺に、知能指数がこっちもぐっと下がってしまい可愛いという単語だけが脳内をぐるぐる循環する。
火照っている頬を、そろっと親指で撫でた。
その熱さを確認したかった。
「仁藤さん」
「…庭が」
「え?」
「庭が、ずいぶん明るくなった。俺が住み始めたころよりずっと隅々まで整頓された」
仁藤は恵から顔をそらして、窓の外に目を向ける。
話を変えようとしているのがあからさまだ。
「うん、そうだね」
せっかく良い雰囲気だったのにと、若干の落胆を交えて返す。
「だって不法投棄された自転車とかあったよ。気づいてました?」
庭は少し前に完全復活を遂げていた。
隅には畳二畳ほどの小さな畑も作って、植えた野菜ももうすぐで実がなる頃だ。
「いや全く。それで気づいたんだが日が昇ると、あそこに木漏れ日が射すんだ。ほら」
指さされた先、青々しく茂る緑の葉の隙間から、地面に光の形が投影されていた。
梅雨前に恵が一生懸命剪定したところだ。
六角形に切り取られた太陽のかけらがいくつも折り重なって、きらきらと揺れている。
「ほんとだ…綺麗。そういえば高校でね、国語の授業のとき習ったんだけど、木漏れ日って他の言語には当てはめられない、日本にだけ存在する言葉なんだってさ」
「翻訳できないってことか。言われてみれば、そうかもしれない」
「あんな光にさえ、名前があるなんて不思議だなー」
「お前は、すごい」
「え?」
「お前といると、描きたいものが溢れてくる。全部絵にしたい」
「俺めっちゃ創作活動に役立ってんじゃん」
「ああ、そうだ」
茶化して言ったのに、真剣な顔で頷かれた。
「お前は、俺に変わらなくていいと言った。俺に描けと言った。…そんなこと言われたの、初めてだった。…ありがとう」
ぎゅっと心臓が締め付けられた。これ以上ない、最上級の仁藤からの感謝だった。
たまらずに、今度こそ顎を捕まえて仁藤のその薄い唇を寄せた。
皮膚の一部がふれ合っただけなのに、動悸で胸のどこかが大きくぱちんと弾けた。
仁藤は逃げるように後ずさったが、抱きしめるとすぐに抵抗しなくなった。
容疑者検察官裁判官を一人で、全部担当して裁判を開いているような気分で、仁藤の息継ぎを封じ込めていく。
やっぱり好きなんですね? はい、とても好きです。
「仁藤さん、ずるい」
鼻先がふれ合う位置で白状する。
「何でだ」
「そんなん言われたらときめかない方が無理だよ」
「責任転嫁甚だしい」
減らず口でも胸に押し込めたら、しばらくそのままでいさせてくれた。
その間、揺れる木の葉の音だけが、開け放った窓からさらさらと聞こえていた。
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