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15
十月の初旬、ついに仁藤の個展の初日がやってきた。恵は人生で初めて花束を買った。
会場に足を向けると、一階には大きくポスターが張り出されていた。
日本で個展を開くのは実に六年ぶりだという。そのポスターは以前家のテーブルで一度見たことのあるデザインが大きくなっているだけだが、あおり文句の一言を見た瞬間、言葉を失った。
『全身強皮症を乗り越えて—仁藤柊吾、画家人生初めての告白』
足が、すくんだ。
そんなの、リーフレットには一切記載されていなかった。あんなに、病気をネタにすることを嫌う仁藤が、自分からこんな大胆な告白などするわけない。
どこまで動けるか、筆を持つことが出来るのか、限界を恵にさえずっと知られることを嫌がっていたのだ。
正々堂々絵だけで評価されたと心から願っているから、障害者のフィルターを通されたくないから、自分のバックグラウンドをひた隠しにしている。
それは恵が一番よくわかっていた。
じゃあいつ?
一体誰がこんなこと?
『集客の目玉が弱いんですよねえ』
はっと、何気ない会話を突然思い出した。
そうだ、あれは夏の始まりを告げる暑い日だった。佐藤たちと帰りが一緒になったときのことだ。駅まで歩く道で、そんなことを話していた。
『仁藤先生って、病気なんでしたっけ』
そういえばあの時、不思議な感覚がした。
相手が何か確信を得ないような。隣で皆川が静かに会話を見守っていたのにも今更ながらぴんとくる。
『そうですね』
『それも一緒に乗っけちゃったら、いっそどうかなあとか思うんだけどね』
『いや、それは絶対にないと思いますよ』
『えー深町くん、さらっと言っといてよ』
『無理ですって。俺の言うことなんて聞きやしませんよ』
『そうかなあ。深町くんには先生、気許してるかんじじゃん』
『どうですかねー』
『うん、話してるとき、大分雰囲気優しいもん。で、病名って…何って言ったっけな、聞いたことあるんだけど難しくて覚えらんないんだよ』
『全身性強皮症ですか?』
『そうそう、それそれ』
血の気が引いた。
秘密をばらしてしまったのは、他でもない自分だった。
なんと馬鹿なことをやってしまったのだろう。
ただの世間話が、まさかこんな事になるなんて、それよりも、できるならば自分を思いっきり殴りたい。
サポートしたいなどと高らかに宣言しておいて。
中井教授に啖呵切っておきながら、自分が何よりも一番酷い方法で、仁藤を裏切ったのだ。今まで仁藤が大切に築き上げたことを、彼が人生を賭けて守ろうとした秘密を、自分がこんな形で踏みにじったと思うと、愕然とした。
しばらく馬鹿みたいにポスターの文を何度も読んだ。
これが夢だったらいいのに。
銀行強盗に捉えられて殺される夢、魔物に追いかけ回されて地下百階の迷路から出られなくなる夢、どんなひどい悪夢も痛みを伴わず起きたらいつもの日常が待っている。
そんな結末でこの場で今、目が覚めたらいいのに。でも、やっぱりこれは紛れもない現実で、恵は足を来た方向に向けた。
花束を通りすぎた公園のゴミ箱にばさりと捨てる。
仁藤に合わせる顔など、あるはずもなかった。
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