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仁藤の家に通うのは週に二回、ゼミもバイトもない一日の昼過ぎから日が暮れる前まで、五時間程度にした。
最初の一週間はひたすら腰をかがめて雑草ばかり摘んでいたが、楽しくないしらちもあかない。庭の隅にある小さな倉庫をあさって小型のチェンソーを見つけたら次の週からはもうコロンブス気取りでジャングルの開墾に手を染めた。洋館を取り囲むようにしてこんなにも立派な庭があるのだから、せめて窓からの景色は眺めの良いものにしたかった。
一応その旨を伝えると予想通り「好きにしろ」。こうなったら思いっきり改造してやろうとガーデニングの本まで何冊か買い集めて、もはやなんのボランティアなのかは大いに不明だ。
いつ訊ねても家族はおろか友達や恋人のような存在は一切見かけず、仁藤はこの広い洋館に一人で住んでいるようだった。
恵がせっせと庭であれこれ動く様など興味もない様子で、いつもイーゼルの前に座っている。
それこそ、こちらから見える仁藤の姿は窓枠という巨大なキャンバスに描かれたひとつの絵にも見えた。
春先でも太陽の下で何時間も作業をしていると汗がにじむ。水分補給をしに一旦室内に戻ると、仁藤が珍しくキッチンテーブルに立っていた。
見れば、すいかくらいの缶に両側からフォークとさい箸を当てて何やらごそごそ作業中だ。
浄水設定のある水道から水をコップに注ぎ込む間ちらちら観察していると、どうやら画材の一種なのだろう、プルトップ式缶の蓋を開けたいらしい。
人差し指から小指は開いたまま、ツールを握らず親指だけで支えているから相当苦戦している。それは珍しく恵が目にした仁藤の不自由そうな場面だった。関節や指先の硬化、というネットの説明文を思い出した。
そういえば筆も、文庫本を片手で開くような形で親指と小指だけで支えた持ち方をしている。単に癖のある描き方だと思っていたけれど。
「はい」
恵は腕を伸ばし、ぱこっと缶を空けてやった。瞬間、右手のフォークが手の甲を容赦なく刺してきた。
「いてっ!」
続いてぎろ、と鋭い目で睨まれる。
「手出しは不要と言ったはずだ」
「だって、それ空けるのに一日かかりそうだったんだもん」
「だったら一日かけて明日に開けてた」
「ひねくれてんな、素直にありがとうって言えねえの?」
さすがにむっとして、敬語も忘れてつっかかった。
「ほら出たな。健常者の恩着せがましい傲慢が」
手に持っていた道具を乱暴にテーブルに置いて、ハッと仁藤が嗤う。
作った顔は汚い虫けらを見るような表情で、何とも人のイライラを買う才能がある。
「なんでもかんでも助けてやって、ありがとうが欲しいんだろ? こんな缶ひとつ開けるなんてお前にとっちゃ何の造作もねえのに、なんでいちいちありがたがらなきゃいけねえんだよ。いいか、よく聞け。俺はてめーらがよこす押しつけがましい偽善の暴力が大嫌いなんだよ」
「はあ? 深く考えすぎじゃねえの? 道で子供が転んだら手差し伸べるだろ。電車でお年寄りが乗ってきたら席譲んだろ。それと何がちげえの?」
「雲泥の差だ。じゃあなんでくそみてえな黄色いTシャツ着た芸能人集団が夏の終わりに徹夜で募金活動なんかしてあんなに視聴率取ってんだよ? 盲目の登山家が富士山に登るからだろうが、肩腕のない水泳選手がドーバー海峡横断するからだろうが。じじばばはな、大昔ぴんぴんだったんだよ。子供は、近い将来すこやかな健常者になるんだよ」
「言ってること、よくわかんね」
「ふん、そうだろうな。どうせそんなくだらねえ番組見て感動して泣いてるやつの大半はお前みたいなあほ共なんだろうよ」
「それの何が悪いんだよ? 募金はちゃんと集まってるからあの番組で助かってる人がいるのは事実じゃんよ」
ついに仁藤は大笑いし出した。
「福祉制度にそんなあぶく銭を期待してることがちゃんちゃらおかしいわ。くだんねえ番組見る暇あるなら国の政策厚くする為に選挙に行くんだな。とにかく、俺にはその安っぽい同情をこれっぽっちでも向けるな。胸くそ悪い」
言い終わったらそれでもちゃんと開けられた缶を持って、窓の前の定位置にさっさと腰掛けた。会話終了。
高い塀の内側から槍の雨を降らされただけで、何がむかついているかもわからないまま強制的にシャットアウトされた。しかし返せるような言葉も思いつかず、恵は唇を引き結んだ。
こんなとき相手を言い負かす話術のひとつでもあればいいが、特に物事を深く考えずのらりくらりと生きてきた結果が今になって表面化する。
後ろからその背中を睨み付けることしかできない自分が情けなかった。
本当に、この男とは馬が合わない。
会話をちょっとでもすればこんな不毛な言い合いにしか発展しない。もう、これからどんな些細なことでも手なんか一切かしてやるもんか、と心に誓う。
熊に食われそうな場面に出くわしても笑って通り去ってやるんだ。
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