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 長かった大学生の春休みが終わり、仁藤の家に通い始めてから一ヶ月が過ぎた。  同時に就職戦争もスターターピストルの嘘くさい銃声を皮切りに本格的にスタートを切った。エントリー、一次、二次面接とどんどん埋まっていくスケジュール帳を開けば、クシコス・ポストが脳内で無意味に流れ出しはしてもまだどこか他人事でいる。  仁藤との距離はといえば同じ時間軸じゃないくらい遠い。  第一、接触がほとんどない。  絵を描いている最中の仁藤は外の音や物事の一切を遮断するからだ。その様子はまるで人型サイズの真空パックに一人で入っているみたいだった。  一方恵は、高い場所の細枝一本ちょん切るのに四苦八苦していた剪定ばさみの使い方も最近では大分板についてきて、庭は徐々に秩序を取り戻しつつある。  そこそこ大きい敷地には、名前なんて知らない見たことすらないような木や草がたくさん植えられていて、ひとつひとつ図鑑と照らし合わせながら答え合わせをしていくのが楽しかった。  もうちょっと暖かくなったら何か育ててみようかななんて思っている。人んちで。  その日仁藤家を訪ねると玄関には見知らぬ革靴とハイヒールが二組揃えられていた。  訝しみながらリビングに入れば、ダイニングテーブルに二人の人影がある。その向かいには仁藤が対面して座っている。来客どちらもぴしっとしたスーツ姿で、反対側はというといつも通りのくたびれたシャツ姿だが、何やらおごそかな雰囲気だ。  そうっと後ろを通り抜けようとする恵に、女の方が気づいて声をかける。 「あ、お邪魔しております」 「こ、こんにちは」 「やだ、先生。こんなかっこいいご親族がいらっしゃったなんて。弟さん…もしかして息子さんかしら?」  女は屈託ない笑顔をこちらに向け、隣の男が固い雰囲気で「こら」とたしなめる。男の方が、反応が正しい。仁藤と付き合い方を心得ているようだ。 「ご冗談を、こんな馬鹿でかい息子なんかごめんです。こいつは最近雇ったただの掃除屋です」  迷い込んだ近所の野良犬です、とか紹介されなくて良かったとちょっとほっとする。って、安心する判断基準がもうおかしくなっている。それよりも先生って誰だ。まさかこの悪魔のことか?  ソファ脇に荷物を置きながら恵は耳をそばだてた。 「それでですね、前年度のニューヨーク個展が大変好評だったので、今年の国内でも同じ面積でギャラリーを探してみてはどうでしょうか。候補はいくつかありますが、代官山レノックスギャラリーが立地と規模的にも最善かと思われます」 「はい。会場はそちらで決めて頂いて構わないです」  知るか、勝手にしろ。聞き慣れた二言が出ないことに恵は驚いた。まだまだ無愛想な口調ではあるが物腰がちょっと穏やかなだけで大分良識人に見える。ちゃんと節操ある対応ができるのか。 「特にニケジャパンとコラボされた二年前から先生の国内の知名度もぐんと伸びていますし、今回は販売数も増やして開催させて頂きたいなあとこちらとしては思うのですが」 「…何点ぐらいをご予定ですか?」 「どうでしょうか、十月まで期間はまだ十分ありますし、商品の他に先生には新作をあと二十点ほど描いて頂ければ形になるでしょう」 「やってみます」   テーブルに置かれたリーフレットを盗み見ると表紙にはでかでかとSYUGO NITOの文字がプリントされていた。へえ、と思う。どうやら単なる暇つぶしではなく絵を描くのはちゃんとした職業だったようだと今更知る。しかもニューヨークて。個展て。かっこいいかよ、なんかむかつくな。 「では具体的な展開内容なんですが…」  恵が準備をわざとゆっくりしている間に繰り広げられる会話にはマージンとか広告費とか単価なんかのいわゆるお金の話がばんばん出てきて、正直衝撃的ですらあった。  芸術って具体的なお金と結びつかない分野みたいな気がしていたのと、何よりその生臭い話に嫌な顔ひとつ見せず、緻密に打ち合わせをしている仁藤に。 「画家だったんですねえ、仁藤先生?」  二人を見送って玄関から戻ってきた男に茶化しながら声をかけると、大きな舌打ちが返ってきた。そしてテーブルの隅に置かれているプラスチックのビタミン剤をぽーんと床に放る。 「キャッチ」 「ああっ?」 「構って欲しいんだろ? ほら、持って来い」 「だから犬扱いをやめろって!」  こちらの文句になんか眉一つ動かさず男はもういつもの席に戻っている。  皮肉がまあよくもこんなに次から次へと…ともやは感心すらしながら、投げられたビタミン剤をそれでも大人しく元に戻す。それから、仁藤の描く絵に一ヶ月後にしてようやく興味が湧いた。  後ろからそうっと覗いてみると細かい幾何学模様を一つ一つ緻密に細い筆で描いていた。大人の塗り絵を何十倍も精密に複雑にしたような作風で、色彩もビビッドカラーばかり使っていてポップだし現代っぽくてちょっとびっくりした。  画家といったら、写実的な瓶とかリンゴとかを永遠と油絵で塗り重ねていくようなイメージがあったからだ。  ただ、要所にちりばめられている瞳孔の開いた目や動物の頭蓋骨などのおどろおどろしいモチーフのおかげで句点のない文章を永遠と読まされているような気持ちになった。  感情をどこに持っていっていいかさっぱりわからないのだ。  その細かさと正体不明さに思わずうわ、と恵は顔をしかめる。  こんなものを何十時間も何十日も延々描いているなんて、信じられない。恵なら三日で発狂する。 「この絵、いくらで売れるの?」  最初は無視していたが、恵が背後から離れる気配がないとわかると渋々口を開く。 「……四十から六十万」  かける二十点。全部このサイズだとして、更にそれが完売すると仮定してざっと最低でも八百万の売り上げだ。 「えええっそんなに? 仁藤さん大金持ちなんじゃん」 「会場費広告費、間にブランドの取り分も入るからさっ引くとそんなには残らん」 「さっきの人たち、ブランドの人だったんだ。でも、何で横から仁藤さんの個展入ってくるわけ?」 「お前は馬鹿か? 自分とこの商品売りたいからに決まってんだろ。そもそもそのための個展だ。あっちの要望に百パー沿うのが俺の仕事。じゃなきゃ何のための打ち合わせなんだよ」 「ふうん」 「何だ」 「それってどうなの? 自分の描きたいもん思いっきし描けないじゃん」  当然の疑問を口にしたつもりだったけれど、壮大な嘲笑が返ってくる。 「香ばしいな。浅はか過ぎてけなす言葉も出てこねえ」 「何がおかしいんだよ」 「おかしいことしかないわ。どうせその貧相な知識でゴッホなんぞ持ち出して生前一枚しか売れなくても画家人生全うしたとか言い出すんだろ? しゃらくせえ」  ずばり考えていたことを言い当てられて恥ずかしくなった。 「だってアーティストって、そういうもんじゃないの。世俗に捕らわれず溢れたものを表現して、それが最終的に評価される」 「じゃあ評価されなかったら?」 「…それでも、頑張る」 「画家がどこのパラレルワールドで生きてると思ってんだ? 俺たちは仙人じゃねえ。てめえと同じ二十一世紀の民主主義国家で、ICカード使って電車に乗ってコンビニの防腐剤たんまり入った幕の内弁当食ってんだよ」  まくし立てるあいだにも、仁藤の手は止まることがない。 「金は大事。描きたいものしか描かなくて食えなくなったらどうすんだ? 他の食いぶち見つけて日々やりくりするのにいっぱいいっぱいで夜中疲れ果てて帰ってきてどうやって良いものなんか作れる? 売れなくて泣く泣く画家を辞めたやつらをこの目で何十人も見てきた。本末転倒だろうが。描きたいものを思いっきり描くために描きたくないものを最高レベルで描くんだよ。それが馬鹿共を黙らせる一番の手段だ。覚えとけくそガキが」  悔しいけれど、ぐうの音も出なかった。  本当にやりたいことを職業にしてる人だからこその、借り物の意見じゃない言葉の重みがそこにはあった。  こんな大きい家でほとんど外に出ないで、世間に文句垂れてるだけのニートがいたずらに歳を取っただけだと思っていたのに。  でも、違う。  目の前にいるのは紛れもなく、しっかり社会経験を積んだ大人だった。仁藤と自分に隔たる断層をはっきりと定点カメラで確認した気分だった。  自分は社会にも出てない、何も成し遂げていない理想を語るだけのだたの子供だ。 「どうした、負けを認めるか」 「うん。仁藤さんが徹頭徹尾正しいわ。ごめん」  素直に謝るとつり上がっていた眉がすとんと平行に戻った。ようやく筆を止めこちらに顔を向ける。 「なんだ、あっけないな」 「だって、本当にそうだもん」 「あーもう、集中力切れた。お前のせいだ。民法放送討論会終わったんならさっさと出て行け」  それでも、もう言葉に叱責は込められていなかった。  恵は外に出て、庭の作業を開始した。  それから一心不乱にキャンバスに向かっていたのだが、数時間して仁藤の筆が乗らくなってきた。  恵が塀周りの雑草を取り払い、その後土をならしている間に、何度も眉間をつまんだり伸びをしたりしていた。なんとなく、体力的に疲れているという印象だった。おもむろに立ち上がったかと思えばキッチンに行き、ケトルを火にかける。窓からリビング、キッチンが一直線なので全部丸見えだ。  フィルターをセットし、コーヒーの瓶に手を伸ばす。その間、もたもた、もたもた。あああっもう。  絶対に手を出さないと以前決めたは良いけれど、実際こういう場面に出くわしてもあえてしらんぷりするのは、なかなか至難の業だ。  恵の良心がちくちくと痛む。  それに、つい手を出してしまいたくなるのをぐっとこらえるのは忍耐を必要とする。さっきからもう自分の仕事に全然集中できず、窓の中をちらちら伺ってしまっていた。  仁藤はようやく瓶を開けたかと思うと粉をスプーンですくい取ろうとして、二杯目で瓶ごと落としてしまう。  床に散らばるコーヒーの粉と割れた破片。素晴らしいタイミングでケトルがシュンシュン鳴り出す。もう家の中は大惨事だ。オーケストラのクライマックスは仁藤の叫び声で終わりを迎えた。ガスを消して、仁藤は上着も羽織らず家を出て行ってしまった。 「あーあ」  嵐が去った後、キッチンの惨状を眺めて恵はため息を吐く。瓶は細かく割れていて危ないし、やっぱりどうしてもそのままにしてはおけなくて、結局恵は後始末をした。ついでに棚の中を探り、新しいコーヒーのパッケージを見つけると四杯分たっぷり淹れて、魔法瓶の蓋を弱めにしめた。  仁藤にとって何が出来て何が出来ないのか、細かくはまだ恵には把握できない。でもこちらが見ていて絶対に不便だろ、と感じる機会は確実に増えた。  今自分がやっていることは仁藤の言うように偽善だろうか、と恵は考える。  善も偽善も正直なところ、今までよく考えたことはない。『困った人を助けましょう』なんて時計も読めないうちからみんなが当たり前に教えられてきた道徳だ、疑うことすらしなかった。  鬱陶しいな、大きなお世話だ、とは誰かに対していつ思っただろうか。  前の彼女が作ってくるお弁当はおいしくなくても可愛いから問題ではなかったし、母親から出るお小言も心配から来るものだとわかっているからちゃんと聞くようにしている。  恵は相手がよかれと思ってやっていることならば、好意だと受け止めて生きてきた。    だからなぜそれほどまで頑なに他人からの親切を一切合切拒んで、誰も家に寄せ付けず一人で生きているのか、恵にはわからなかった。
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