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 大学入学と同時に始めたイタリアンレストラン兼バーにはもうまる三年務めている。 「ワインに詳しくなったらかっこいいかな」と安直なきっかけで雇われたがホール担当でも今ではちょっとしたまかないも作らせてもらえるようにまでなった。…ワインの味は、まだよくわからない。  赤い木製扉を開けると、最近新しく入ってきた一コ下の新人、芽衣子はもうギャルソンエプロンに着替えていた。 「ええっ! それで深町さん、バイトもう一つ増やしちゃったんですか…。それって大丈夫なんですか? この時期に」  最近シフト入ってないですね、の一言から仁藤の家に通い始めたいきさつを話すと、芽衣子は長い髪を括りながら心配げな声を返す。  高くポニーテールが出来上がると、ほわんと柔らかい印象からがらっと活発になるから女の子って不思議だ。どっちも違って可愛いが、ゆるく巻いて下ろしている方が恵の好みだった。 「うん。きちっとしたバイトって言うか、まあてきとーなやつだし。それに、就活の脚がけになればいいかなあなんてよこしまに始めたからさ」 「そうなんですか。でも、体調はくれぐれも大事にしてくださいね」  大人びた仕草で人差し指を立てるのが、何とも微笑ましい。  ふわふわキラキラ、綿菓子みたいな笑顔。ああ、実に癒やしだ。いつも人を睨み付けるか鼻で笑うかの誰かさんとは大違いだ。ひょんなことから、で始まるきっかけの家にこんな可愛らしい女の子がいたら、それこそティーン向け恋愛映画のように甘酸っぱい恋の一つや二つ始まっていただろうに、残念だけれどあの屋敷には狂気の男しか住んでいない。 「そういえば芽衣子ちゃんって、立栄大の横文字いっぱい入った芸術系学部だよね、何だっけ」 「デザインプロモーション学部です」 「って、想像すらできねえ。何すんの?」 「世に出てるモノの、誕生してから人に渡るまでの分析みたいな? 自分たちでデザインもやるし、どうやって売ったらいいかも考えるし、うーん説明が難しいです」 「すごいな。俺そんなん絶対できないよ」  いつも一緒に働いている子が予想外にクリエイティブ寄りだったことに恵は目を丸くする。芽衣子は恵の反応を見てふふふ、と笑う。 「そんな、深町さんだってすごいじゃないですか。私だって経営分析とかできないですよ」 「あんなん習えば誰でもできるよ。ならさ、もしかして仁藤柊吾って知ってたりする?」 「え、もちろんですよ」  当たり前のように言われる。 「マジ? そんなに有名な人?」 「んーと、芸術畑にいたら普通にわかるくらいの知名度はありますね。早くから作品評価されてますし、いくつか県美術館にも作品飾られてますよ。ほらこれ」  とスマホ画面にはよくわからない例の細かい模様が映し出されているのでやっぱり同一人物の作品であろう。 「それこそなんで深町さんは知ってるんですか?」 「いや、最近教えてもらって、ちょっと気になってさ」  と、お茶を濁した。これ俺の知り合いが描いてんだ、と自慢するには心の距離が遠すぎる。 「個展も年に一回してるはずですよ。ああでも海外の方が断然知名度あるらしくて、ここ数年国外個展が続いてますね。もう日本でする気はないのかなあ。やったら行きたいんですけどね」 「どうだろう。てか俺さ、ぜんっぜんわかんないんだけど、あの絵の良さが」  正直な感想を明かすと、ふふふ、と芽衣子は目を細めて笑う。 「まあ現代アートの一種ですからね」 「芽衣子ちゃんは好きなの?」 「好きですよ」 「どこらへんが?」 「例えばこのシリーズ。遠くからずっと見てると、ぼんやり浮かび上がってくるモチーフがあるじゃないですか。鳩だったり虫だったり。わあ何かわかった、って感動したら今度はそれが、生きてるか死んでるかわかんないんですよ。ぼんやり宙に吊られてるみたいな感じになるんです。とにかくそういう言葉にならない気持ちを、具現化出来る人ですね、仁藤柊吾は」  仁藤の、ずっとあの家の直径五メートルにも満たない行動範囲で絵を描いている姿しか見てこなかった恵は、こうして面識のない他人からもすらすら本人の情報が出てくることに不思議な感覚を覚えた。みんなが知っていて恵が知らない仁藤がそこにはいる。本当にすごい人なんだなあ、と今だからこそ余計に思う。あの家から、あの小さな身体から、大衆の心を動かす何かを生み出せていることに。  かたや二十一年生きてきて、恵には誇れるものなんて何もなかった。  そこそこ部活をやって、そこそこの高校に行って女の子と付き合ったり遅刻して怒られたり、仲間とサバイバルゲームの武器強化にいそしんだりして日々を過ごし、二流の大学から今そこそこの会社に入ろうとしている。ザ、ど真ん中普通人生だ。ミスター普通。今後どう転んでも、生前に広く名が知れ渡るような人物にはならないだろう。  かといって今から何が出来る?   ユーチューバー、タピオカで企業、それとも仮想通貨でひと財産築いてみる? いやいや別に、金持ちや有名人になりたいわけじゃない。  でもこんなに間近で、好きなことを思いっきりやって、人生を謳歌している人物を見てしまうと、有給消化率や初任給を見比べて四季報に付箋を貼っている自分が馬鹿らしくて、ちっぽけな存在に思えた。  恵には、自分が一体何に長けているのかすらまだわからない。 「あっいいよ、やるやる。重いだろ」  一人で考え込んでいるうちに芽衣子はおしぼりがみっしり詰まったプラスチック容器を持ち上げて棚に納めようとしている。 「わ、ありがとうございます。助かっちゃった」 「大丈夫、力仕事は無理しないで俺に任せて」 「深町さん、頼りになるー」 「なんのこれしき」 「あはは、かたじけない」  そう、本来ならばこれが正しい反応だ。  出来ること出来ないことは性別や体格、年齢によっても様々に違う。だから出来なければ出来るやつにスライドする。お互いに。  こうやって人間はずっと社会を築いてきたはずなのに。  恵が知っていてみんなが知らない仁藤の、あの迷いのない筆さばきを、そして一切を拒絶する細い腕を恵はぼんやり思い返していた。
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