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6
普段は夜の営業時間に入っているバイト先から、急遽欠員が出たとの連絡を朝もらった。卒論さえ完成させればゼミもほとんど行かなくて良いし面接なども落ち着いている。
どうせ日中は暇を持て余していたので昼のランチを手伝った。店にはラストまでいて、その後仁藤の家に向かったために着いたのは結局夕方の三時前だった。
急いでリビングの扉を開くと足下の荷物を蹴りつけようとしてまった。
「わっ!」
つま先が物体に当たる寸前の所でブレーキをかけ、下に視線を移すとそれは荷物ではなく、うずくまった仁藤だった。
「仁藤さん?!」
「…っ…」
床で仁藤は、全速力で駆けた後のような短い呼吸を繰り返している。
「どうしたんですかっ」
「どうも、し、ない。…ほっと、…け」
「ばかっ! んなこと言ってる場合かよ!」
「…るさ…」
「息、しづらいんですか?」
それでもこくりとわずかに首が動く。
「どうすればいい? 病院行く? それとも救急車呼びますか?」
「何でもな、い…つものやつだ。…寝てれば、治る」
虫の息でそんなことを言う。逡巡したが、とりあえず本人を信じてみることにする。そうっと抱き上げ、階段を上った。家の造りから寝室は二階なのだろうと予想はついている。二つ目の扉の中でようやくベッドを見つけると、できるだけ振動を与えず横たわらせた。相変わらず息づかいは浅く、粗い。
「何か持ってきますか? 水? 服用してる薬とかあれば場所教えてください」
「…引き出し」
ベッド横に箪笥のような小さな棚があって、中を開けるとガーゼやらマスクやらがぎっしり詰められていた。その中に薬の入った袋を見つける。
「これ? 何錠?」
「に…」
急いで汲んできた水といっしょに小さな錠剤をふたつ渡す。
起き上がらないで器用にそれを飲むと、仁藤は壁にむけ再び丸くなった。
その姿は土から出る時期を間違えたカブトムシの幼虫さながらで本当に痛々しかった。横で携帯を開き、『強皮症 浅い息』と打ち込む。くまなく探すと、強皮症患者で肺機能が低下して、呼吸するとき肺が痛むことがある、なんて症例を見つける。もしかしたらこれに該当するかも知れない。やっぱり治療薬はなく、手の施しようはないと文末には書かれていた。
いましがた飲んだ薬はただの痛み止めなのだろう。
こういう姿を見ると、不謹慎だけれどちゃんと弱い人なんだな、と改めて気づく。恵は生まれてこのかた、倒れるような呼吸困難に陥ったことなんて一度たりともない。
もしこんなことに自分がなったとしたら即パニックになってすぐさま緊急窓口を叩くだろう。それを当の本人はよくあることだと取り合わない。
軽い羽毛布団をぱさりとかぶせるときに、背中を何度かさすった。
首の付け根から、背骨の最後まで。これで呼吸が楽になるわけではないだろうが、幼いとき風邪を引いたら、母に撫でられる手にとてもほっとしたことをを思い出したのだ。
それから少しの間観察していたが、良くもならないかわりに悪化してる印象もない。仁藤の携帯を開いてみるとロックはかかっていなかったので自分の番号を勝手に登録して一緒に枕元に置いた。
長く続くなら一人にした方がいいのかな、とも思ったのでそっと声をかけた。
「なんかあったら、呼んでください。下にいますから」
「ま…って」
閉めようとしたドアノブから手を離す。
「それ、してて…」
ほんの、小さな声だった。特定の基準を超えてしまったら二度と聞こえなくなってしまう、モスキート音みたいな頼りない周波数で。近寄って聞き返す。
「どれ?」
「せな、か…」
初めて送られる、仁藤からのSOSサインだった。
恵はゆっくりスプリングに座り、布団の中に手を入れた。薄い肉体は、布の上からでも触ると背骨の一つ一つがよくわかった。先ほどのように、上から下へ、背中に手を這わせる。
「痛いの痛いの、とんでけー」
ささやかに唱えながら、ずっと同じ動作を繰り返していると、こわばっていた身体からちょっとずつ力が抜けていくのがわかった。
「何か、話して…」
「何かって、どんな?」
「気、紛れる、やつ…」
「うーん…昔々おばあさんが川で桃を拾いました。桃から生まれた桃太郎は…猿、鳥、キジと一緒に…あれ? 鳥類が二匹もいるな。あと一つなんだっけ?」
鬼退治に同行したのは何の動物だったかさっぱり思い出せない。
そもそもなんで鬼なんか退治しようと思い立ったのかもあいまいだ。打ち出の小槌で大きくなったのは一寸法師だし…恵は結局思い出すのを諦めた。
痛みを忘れられそうな、どうでもいい話を思い出の貯蔵庫からあれこれ探す。
「幼稚園くらいの時ですかね。公園に隣の学区の女の子がよく来てて。同じくらいの歳だったから仲良くなって遊んでたんですけど、ブランコを高く漕ぐのがね、その子めちゃくちゃ得意だったんですよ。ふわーっふわーって、本当に空に飛んでっちゃいそうなくらいまで自分が乗ってる薄い木の板を高く上げるの。頂点で鉄の鎖がしなって、また戻ってくる。すごかったなあ」
浅かった呼吸が、次第に収まってくる。リアクションはないけれど、静かに耳を傾けてくれているのがわかった。
「横で一緒に漕いでもね、その高さに絶対勝てないの。今日こそはって勝負するんですけど、やっぱり怖い地点ってあるじゃないですか。内臓がふっと無重力になる、ジェットコースターが落ちる瞬間の浮遊感みたいな。あれを体感するとそこから先に、俺はどうしても行けなかった。でもその子は軽々越えちゃうんですよね。子供ながらに、確かな敗北を味わった瞬間だったなあ。あっ強い、勝てねえ! って」
はく息が、ちょっと笑ったような気がした。でもそれが気のせいなのかどうか、確かめる前に呼吸は深い吐息に変わる。寝たようだ。そうっと恵は背中から手を離した。
こんなんになるまで、他人を退けようとして。こんなんにならないと、側にいての一言も言えないで。
まだ苦しそうに刻まれた鼻の上のしわを見ていたら、冷たい冬の水につま先が触れた時みたいに心臓がきゅっと縮こまった。
それから悪態がみるみるうちに心に渦巻く。なんでだよ。横柄なら横柄らしく、もっともっと国に他人に色々あぐらかいとけよ。憎まれっ子世にはばかるはどうした。絵に関してはあんなに聞き分けの良い大人だったのに、なんだよこの有様は。意地張ってないで、同情も補助も福祉手当も貰えるだけ貰ってのうのうと生きりゃいいじゃん、馬鹿野郎。
浅い息しか出来ないで、ひっそりとベッドの隅でうずくまってなんかないで。
そのとき、何も出来ない自分をふがいないと強く感じた。自分の手や、昔のどうでもいい記憶は、ちょっとでもつらい気分をましにしてやれただろうか。わからずにここにいることが、もどかしかった。
寝室に持ち込んだ椅子に座って仁藤を見守っていたつもりなのに、いつの間にかうたた寝してしまったようで、起きたときににはすっかり夜だった。恵を残して仁藤はまた一階の窓辺で絵を描いていた。何事もなかったかのように、ずっと一日中そうしていたように、キャンバスにかじりついている。
「仁藤さん、もう大丈夫なんですか?」
返事はない。しょうがなく、帰る支度をする。
「じゃあ、お邪魔しました。また金曜日に来ますね」
「…がと」
「え?」
聞き返したが、声の主は振り返らない。
のぞき込むと描きかけの絵の左上に、小さなブランコに乗る少女のようなシルエットが描き足されていた。
静かに扉を閉めて駅まで歩く途中、胸が鳴っていた。きっと「ありがとう」と仁藤はあの時言ったに違いない。空耳だったとしてもそう思うことにしよう。
拒絶されたって、なんと思われたっていい。
もう手を伸ばすことにあれこれごたくは並べないでいようと決める。そう、あの折れそうに華奢な背中をさする理由はもっと単純でいい。だって、深く考えるのは苦手なんだから。
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