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 次の週、リビングに入ってそうそう仁藤をテーブルに座らせた。 「偽善とかボランティアとか考えてもよくわかんねえから、とりあえずこれから俺は俺のやりたいことをやります。てわけで、はい」  紙とペンを目の前に差し出す。 「なんだこれ」 「リストです、リスト。仁藤さんがやりにくいこと感じることや不便なことを思いつく限り書いてください」  渋々仁藤は筆と一緒の持ち方でペンを握る。買ってきた食材を冷蔵庫に入れ終えたら文章を確認すると、 ・角のコンビニの店員がどいつものろま ・クリーニング屋の客層が悪い ・朝5時方寒風摩擦のじじいの声がうるさい  予想はしていたが、どこまでも素直じゃない。 「誰が日常の不満を書き記せっつったよ。もうわかりました。じゃあ俺から質問するから、できるかできないかで答えてください」  向かいの椅子に恵は腰掛け、別に書いてきたリストを開く。 「目覚ましをセットする、止める」 「っ! こんなの馬鹿げてる」 「至って真剣です。答えてください」 「……できる」 「歯を磨く」 「できる」 「トイレに行く」 「だからできるって言っている! 俺を馬鹿にしたいのか!」 「まさか。お相撲さんは一人でトイレに行けないんですよ? さっきから真面目な話しかしてません。次、リンゴを包丁で向く」 「…できない」 「野菜を切るのは?」 「二等分くらいなら」 「何の?」 「…大根」  つまり単純に振り下ろすだけの作業だ。 「今まで食事はどうしてたんですか?」 「弁当とか出前とか、そこら辺でなんとなく」  たっぷり三十項目できるできないを質問してなんとなく見えてきたのは、やはり手先を細かく使うのと力を使う作業が苦手のようだった。そして、思った通り内臓の合併症があり、たまに呼吸困難と空咳をするという。  頻度は季節や体調によって変わる。 「これからこの家に来る回数を変えようと思います。週四回、時間も増やして伺います」 「勝手に…」 「わかってます、勝手にするんで一応報告です。あ、お金も食費とか雑費に使う以外には残すんで、貯金箱置いときましたから。じゃあそれだけなんで俺は庭に行ってますね」  一旦仁藤を解放して恵も庭の掃除を始めたが、いつもの半分の時間で切り上げて、キッチンに移動した。日も暮れだした頃、仁藤を再び呼びつける。テーブルに並べた料理に気づいたら、男は目を丸く見開く。 「これ、ひょっとしてお前が作ったのか?」 「まさか。出前です」 「へえ」  今はこんなものまであるのか、と本気で感心している。  二時間ほど水回りの環境を整えようとごそごそキッチンに立っていたのだが、まな板の上で野菜をとんとん切る音やフライパンで焼ける魚の匂いは絵に没頭している仁藤には届かなかったようだ。  つくづく、超人的集中力だ。 「んなわけあるか。俺が作ったに決まってるじゃないですか」  ベシャメルソースで和えたサーモンのムニエル、グリーンサラダ、アスパラの素揚げ、卵スープ。  どれが使いやすいかわからなかったから箸フォークスプーンナイフとカトラリーを全種類その横にセッティングした。  何を言われても受け流せるよう『そんなこと頼んでない』『犬の作った飯なんか食えるか』等々一通り相手の反応を事前にシミュレーションしたので、さあいつでも来い手榴弾! と待ち構えていると対戦相手はなんと無言で椅子にちょこんと腰を下ろした。 「この白いたれも?」 「小麦粉バター牛乳さえあれば簡単に作れますよ」  仕込みで一番初めに習ったのがこのベシャメルソースで、もう計量しなくても黄金比を割り出せる自信の一品だ。  「いただきます」  丁寧に手を合わせて、仁藤はフォークを手に取った。 「…おいしい」  サーモンを一口食べて、ぽつんと感想を述べる。  普通の人相手ならばこうも一言で心を動かされはしないだろうが、この男がちょっとでも素直だと何倍も感動してしまう。  これはあれだ、不良が野良猫に餌を与えるところを目撃すると超絶いい人に見えてしまう法則に違いない。 「嫌いな料理聞くの忘れちゃったけど、食べれてよかったです」 「ナス以外ならだいたい食べられる」 「ナス? わかる、俺も得意じゃないです。食感がなんか苦手なんですよね」 「火を通すとあんなにぐずぐずするくせに漬物だときゅっきゅして、栄養価もない。存在価値が疑問だ」 「もしかして食べ物の好みは合うのかな、俺たち」 「やめろ、ナス一つで」  仁藤は嫌そうな顔を見せるが、前までの人間とも思ってないような視線ではなかった。そう感じるのはこっちの勝手な気のせいだろうか。弱い姿を目撃したという。 「…お前にこんな特技があったとは」 「全部バイトのおかげですね。最初は包丁もうまく握れなかったですよ」 「じゃあ、……グラタンは、できたりするのか?」  ためらいがちに訊ねられる。 「グラタンもクリームコロッケもクリームパスタも白い料理はこれを応用するだけですから、だいたい全部いけます」  無言だったので怖くなって顔をのぞき込むと、目に輝きが潜んでいた。 「好きなんですか? グラタン」 「…ああ」  素直な返答にのけぞりそうになった。いや、平常心平常心。 「今度作りますよ。中に入るのは何がいい? エビ? チキン?」 「…エビ。小さいとき、よく母親が作ってくれたのを思い出す」 「小さい時? オシャレなもん食ってる子供ですね。俺の思い出の中にある『お袋の味』なんて大皿にどかんと盛り付けられた唐揚げくらいですよ。割烹居酒屋のカウンターに並べられたおばんざいみたいに、もりっと山になってる」  仁藤の箸が進むのが嬉しかった。普通の会話をしていることにも安心する。でも喜びをあらわにしたらひねくれ屋は途端に席を立ちそうで、何気ない風を装う。 「お前は、…食べないのか?」 「え? ああ、そうですね…」  仁藤の夕食を作るのが一番の目的だったので予定はしていなかったけれど、次の日用として保存容器に入れるため、多めに作ってはいる。  仁藤は視線を泳がせた後、言いにくそうに口を開いた。 「そうやってずっと見られていると動物園の餌やりタイムみたいで心地悪いんだよ」  お前も一緒に食べればいいじゃんと言えないでいるのだと、背中をさすった一件の後だったからわかってしまった。にんまりとゆるむ口元を抑えながらフライパンに寝かせていたサーモンをもう一切れ皿に移した。 「じゃあ、一緒に頂きます」 「…そんなに沢山作るってことは姉弟が、いるのか?」 「はい。兄と妹が一人ずつ。歳もわりと近いんで、そりゃ子育て大変だったんだろうけど、それにしても子供にはとりあえず揚げ物食わせとけっつー魂胆が見え見えですよね」 「にぎやかな家庭だったんだな」  語尾の響きが、ちょっとだけ羨ましそうだった。こんなに長く仁藤と話したのは初めてだったが、会話してみるとぶっきらぼうな物言いの中にもちゃんと感情の揺れを見つけることができた。  反抗期を家庭で初めて迎え、親とバトルを繰り広げていた兄とぼやぼやでこれまたよく怒られていた妹の間に挟まれ育ったので、これでも察しは良い方だ。空気を読むスキルが生存戦略として強く刻まれている。 「にぎやかというか、うるさいというか。仁藤さんは一人っ子ですよね?」 「お前今、確信的に聞いたな」 「はい。だってかわいいかわいいって何でも与えられて、すっごい甘やかされて育ってそうじゃん」 「失礼なやつだな。俺はお前より二十歳も年上なんだぞ、悔い改めろ」 「それまらまずは年上らしく、犬呼ばわりを訂正してくれたら考えなくもないですね。人は自分の鏡ですよ」 「…母はともかく、父は割と厳しい人間だったな」 「いや訂正せんのかい」  仁藤は構わず話を進める。 「美大受かったときも絵なんかで食ってけるわけがないって猛反対されて、母がすごく説得してくれた。母の後ろ盾がなかったら俺は今こんなことやれてなかっただろう」  そうだったのか、意外だ。幼い頃からやりたいことを何でも許されてきた末のこの性格だと勝手に決めつけていた。 「じゃあ仁藤さんがこんなに絵で成功して、ご両親びっくりしてんじゃないですか。喜んでるでしょ? 子供の活躍が嬉しくない親はいないって言いますもんね」 「それはわからん。親はどっちも十年以上前に死んだから。個展だなんだって出来るようになったのはちょうどその後からだ」  話の舵がとんでもない方向に切られてしまい恵は動揺を隠せない。 「そう…なんですか。確かに実家っぽいのになんで一人で住んでんのかなって思ってはいましたけど」 「ああ。最初は母が脳出血でぽっくり、その後を追うように二年後、父が。この家も最後は空き家になるっていうから、戻って住み始めたのは父の葬式後からだ」  昔に亡くなっているわけだから今更ご愁傷様と言うも違うだろう。祖父母だってどちらもぴんぴんしているし、参列したお葬式の記憶は遙か彼方で恥ずかしながらこんな時に恵はなんと言っていいかわからない。  恵の戸惑いを確認して仁藤は人の悪い笑顔で口を歪める。 「ほら、泣けよ。身寄りのない年寄りが悲しい過去背負って病気煩いながら孤独に暮らしてるんだ。ちょちょぎれるだろう」  しみったれた気持ちが一瞬で吹き飛ぶ。 「だぁれが泣くか。第一仁藤さんは全然年寄りじゃないし。こんないい家で悠々自適に住んでるし。庭も広いし、外国の絵本に出てきそうだ。あ、綺麗になればですけどね!」 「ふん、つまんね。やっぱり両親共々っていうのはあからさま過ぎて信憑性に欠けるか」  子供がいたずらを失敗したような言い草だ。 「うわっ騙したのかよ!」 「こういう不幸話好きだろお前らは。ジョークだよジョーク。親は健在、父は俺の仕事渋々だけど認めてるよ。この家は窓が気に入って自分の金で買った。まあ庭は広すぎて手入れ出来ずに荒れ放題だけどな」 「焦らすな! そのジョーク、際どすぎるわ。でもだったら安心した」 「親が生きててか」 「どっちかっていうと、お父さんが仁藤さんのこと認めてるって方に。もし仁藤さんの仕事する姿見なくていなくなったんならやりきれないよ。こんなに真剣に起きてるときは全部絵のこと考えててさ。見たら絶対やりたいことさせなくちゃって思うのに」  箸が、急に止まった。仁藤は細かな瞬きを繰り返す。 「あ、ごめん生意気だった?」  問いかけに、首が横に振られた。それから目尻がふわっと緩んだ笑い顔を見せる。空から羽が舞い落ちるみたいな、優しくて柔い笑顔だった。それは自分の何気ないコメントの対価としては不釣り合いな気がするほどで、なぜ仁藤が表情を崩したのかわからないまま、恵はその顔に一瞬見入った。
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