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仁藤の暮らしぶりを見ていると、本当にアーティスト然としているな、と心から思う。日常生活において出来ないことが多すぎるのだ。
まず、自分が始めたことをほとんど遂行できない。
冷蔵庫から飲み物を取り出し閉め忘れるのは日常茶飯事、家の電気もどこもつきっぱなし、ひどいときは蛇口までひねられたままだ。背中にむきだしたタグはもう見飽きたし、スリッパを両方履いている日を見つける事の方が難しい、髪がぼさぼさだなと思っていたら平然と「三日風呂に入ってなかった」とか言う。一度食材の好みを知ろうとスーパに連れて行ったことがあった。二回平坦なところでつまづき、野良猫には威嚇され、横断歩道の途中で急に立ち止まっては右折車にクラクションを鳴らされると逆ギレして運転席に向かって中指を立てていた。四十過ぎた男の行動とは思えない。
こんな職業だからこそ堂々と表現者という大義名分を貼り付けていられるけど、普通にいたらただの欠陥品か変質者だ。そしてこれらの素行は絶対に病気のせいではないと断言できる。こんなんでよく、初対面のときに「何不自由ない」と胸を張っていたなと呆れる。そんな風だから家に行けば何かしら恵の仕事はあるわけで、今では日時を決めずともできる限り時間が空けば仁藤宅を覗くようになった。
季節は梅雨が始まったばかりで浮かばれない天気が続いているけれど、気分はそれほど苦じゃないのは、仁藤との関係があの日を境に良好になったからだろう。
「仁藤さん、おはようございます」
十時前なのに仁藤はもうリビングにいて、声をかけると呆然と振り返った。目の下のくまが深い。このところ根詰めて絵を描いている姿をよく目にする。
「もしかして、昨日寝てません?」
「ああ…ふつか」
「二日も? ちゃんと睡眠取らないとだめですよ」
「これが終わったら」
キャンバスを見れば色が塗られていないから完成まではまだまだかかりそうだ。恵はため息をつくがそんなもののひとつで信念を曲げるような人物ではないから黙ってお茶を煎れる。
「どうぞ」
これには大人しくマグカップを受け取って一口飲むと、電池切れした人形はぱたりと床に身を預けた。
「寝るならちゃんと寝室で寝てください」
「…寝ない。全然描けてない。…暗い」
うつ伏せから体勢を変え床に背中をくっつけたのだが長い前髪が目元を厚く覆っている。
「視界が? 気持ちが?」
「どっちも」
絶望的な声音がおかしくて恵は洗面所からヘアクリップを持ってきた。
「髪、今度切りに行きましょう。大分ぼさぼさですよ」
前髪をかき分けパチンと留めてやる。これも伸ばしっぱなしの髪を鬱陶しいだろうと案じて恵が買ったものだ。仁藤はおとなしくされるがままになっていて、口は変わらず悪いものの最近は恵に対する抵抗もずいぶん減ったように思う。明るくなった視界でようやく恵と目を合わせる。
近くで改めて見ると二つの瞳はあどけなく、吸い込まれるようにのぞき込んだ。野生動物を手懐けるのはこんな感覚かも知れない。
猛獣は火の輪は飛ばないけれど、手から食べ物をもらう位にはなった。
「これでちょっとは明るくなった?」
「…視界は」
続けてショートブレッド型の栄養食を口に放り込む。どうせ昨日から何も食べていないに決まっている。
「それが完成したらおいしいものでも作りますよ」
「グラタンがいい」
「はいはい」
仁藤はもぐもぐ口を動かしながら恵の小綺麗にしたした格好に気づいて眉をひそめる。
「なんだ、今日はえらくめかし込んでるな」
「ちょっとこの後、用事があるんで」
昼から芽衣子と約束をしていた。美術館に飾ってある仁藤の作品を「見たことがないなら、一緒に行きませんか?」と誘われたのだ。
なんとなく気恥ずかしくて、これからあなたの描いた絵を見に行くんです、なんて本人には言いたくない。
それと、女の子と久々の外出で浮き足立ってるのを知られるのも馬鹿にされそうで嫌だった。
「あっそう」
懸念してみたものの追求されることはなく、恵の私生活を気にする風もない仁藤は起き上がりまたキャンバスに向き直った。
「ご飯作っときますから、お腹が空いたら食べてくださいね」
「ああ」
一言目で聞き分けが良いときはただの空返事だ。恵は気にせずキッチンで卵焼き、さばの塩焼きとみそ汁を作るとテーブルにセットした。
全てにラップをかけたところで時計を見るとちょうど電車に乗る時間だったので、そのまま薄手のジャケットを羽織る。今日はからっと空が青い。久々に太陽を仰いだ気がする。
駅の待ち合わせ場所に着くと、芽衣子は華やかな笑顔で迎えてくれた。
「ごめん、待った?」
「全然、今来たとこです」
バレッタでとじたハーフアップと薄ピンクの花がらワンピースがとても似合っていた。見慣れた白シャツにエプロン姿じゃないから、新鮮に映る。まずは腹ごしらえ、と連れ立ってレストランに入った。芽衣子とバイト先以外で会うのは初めてだったせいか、なんだかそわそわしているように見えた。
「いつもの慣れた背景じゃないと落ち着かないよな」
代弁するとほっとしたような表情を見せる。
「私たち会うのって、いつも夜ですしね。そういえば就職活動は、どうですか?」
「まあぼちぼちかなー」
仁藤の家で経験したことが役立つような場面にはまだ出くわしたことはないけれど、一応数社の選考は進んでいた。
「何系の企業で狙ってるんですか?」
「学部的にメーカーと商社に絞ってるかな」
これを学んだならこれを目指しなさいなんて、そんな誰が言い出したかわからない刷り込みにいつの間にか従っている。ただ受かった大学の受かった学部に入っただけなのに、終わる頃にはいつの間にか道筋が引かれているのはなぜだ。世の中は気づかないうちに選ばされてることだらけだ。でも、仁藤は違う。自分がやりたいことに耳を傾け、心に従いちゃんと選んで生きてきた。
「一社はもう内定出てるんだけどさ」
「えーすごいじゃないですか、おめでとうございます」
「いやーまだ夏前だし、もうちょっといいとこ狙えるんかなーなんて」
いいとこって、どこだろうと思いながらも。大きい名の知れた会社か? 福利厚生がしっかりしたとこか? そこに入れば幸せになれるなんて別に信じてやしないけれど。
「わあ大変そう…私も一年後が今から怖いです」
「大変だよー。でもまあ芽衣子ちゃんは大丈夫だよ。しっかりしてるじゃん。へらへらーっと合わせてしか生きてこなかった俺みたいなやつはしわ寄せに合うんだけどさ」
「深町さんは、それがいいんですよ」
「えっそうかな?」
「そうですよ。深町さんは人に合わせられるチューニングのつまみが人よりも細かいんです。それを私はへらへらとは思いません。例えば深町さんって、バイト終わったら、真っ先に私に更衣室使わせてくれるじゃないですか。女でいろいろ準備かかるから私が一旦入ったら遅いってわかってるのに」
広くない店内なので、人一人が入ればぎゅんぎゅんに詰まってしまうスペースの更衣室は交代で使うことになっている。かといってトイレも深町のサイズでは窮屈でとてもジーンズなんか履き替えれないので、結局最後まで着替え終わるのを待っている。
「芽衣子ちゃんは女子だし可愛いから、終電なくなったら困るでしょ」
「って言う話を、ちょうどこの前佐藤くんともしたんですよ。佐藤くんとでも、深町さん自分はいっつも後回しにくれてるって言ってました。そういうのすごいなあって思います」
「え、俺急にめっちゃ褒められてる」
「真剣に褒めてますよ」
「やめてやめて。照れるじゃん」
「深町さんって、変ですよね」
しみじみと言いながら、芽衣子がほのかにレモン味のする水を飲む。
「えっ今度はディスられてる? 上げて落とすのやめてよー」
「だってそんなに容姿整ってて、なんでこんな些細なことでもじもじしてんだろうって。絶対小学生からスクールカースト一軍じゃないですか。かっこいいだろ当然だろってなりません? あ、もじもじされるのは可愛いですけどね?」
「もじもじは余計! ああ、変に容姿にコンプレックスあるからかもなあ」
天から一物が与えられたなどとおごってはいないがいっそ清々しいほど何一つ貰えなかったら、開き直ってがむしゃらに何かを頑張ったり、ハンデをバネに高みに登れたかもしれない。外見がいくらか整っているからと少しの自意識が満たされたって何の得にもならない。むしろ劣等感を余計あおられるだけだ。そして思考はまた仁藤に行ってしまうのだ。容姿以外の、本物の才能を遺憾なく発揮する男に。
「うわーそんなこと言いたい人生だった!」
「いやいやその発言こそ女子を敵に回すよ?」
「いえいえ深町さんこそ…ってお互い褒め合うターン来ちゃいましたね」
「マジだよ。これ以上やると白々しいからここらへんにしましょう」
「同感です」
軽い掛け合いが楽しい。話のテンポも合う。バゲットをついばむ芽衣子の唇はぷっくりと厚くて、いかにも女の子という形だ。
仁藤のそれはもっともっと薄い。だから唇を結んでいると冷めたい印象なのだけれど、前歯が他の歯よりもじゃっかん大きいおかげでいったん口を開くと小動物のような可愛さがあることを本人は知っているんだろうか。
言及するとまた怒りそうだから胸に秘めておこう。そういえば朝置いてきた食事はもう食べただろうか。もしかしたら徹夜続きでろくにものを入れてない胃にさばの脂身は重かったかも知れない。
もっと野菜の副菜を増やせばよかったと今更後悔する。これが済んだら家に寄ってみよう。
まだ食べてなかったら意地でも食卓に座らせるのだ。
脳の回路が全て最後には仁藤に集結していて、なんだか面白くなかった。スカッと晴れ晴れしい天気の日に、目の前に可愛い女の子がいて最高なひとときのはずなのに、この状況を全然楽しめない。こんなことなら仁藤の口に食べ物が運ばれるのを見届けてから来るべきだった。
ランチを食べ終え着いたのは県が運営する美術館で、一階はおなじみの超有名画家を飾る期間展、二階に上がると『地元出身の現代画家』という立ち位置で一角に仁藤の絵が飾られていた。
「わー原画、やっぱり迫力あるなあ。色彩、すっごい綺麗」
見上げながら芽衣子はしみじみとしている。
恵は原画の色うんぬんより、いつも見慣れた絵がこんな大それた場所に飾られていることの方に感銘を受けた。わかる人にしかわからなくても、テレビでよく見る芸能人なんかより、よっぽどすごい事だと思う。
でも賞賛を口にしたところで仁藤は「自分が本当に描きたいものを描くためにやってることだ」としれっと言いそうだった。
面白いもので、ガラス製の什器には高校時代に描いた素描や人物画なんかもいくつか展示してあった。
「へえ、普通の画も普通に上手いんだな」
「あはは、当たり前ですよ。基本を嫌ってほど訓練されて、その上であえてここに行くんですから」
「つくづく、芸術はわからん世界だなあ」
「正直でよろしい」
しかしガラスケースに収まる中の一枚に、なぜか見覚えがあった。目をこらしてじっと見ていると、二十数年ばかり若くして制服を着せた中井教授、のような気がした。
意識的に目尻のしわなどを重ねてみると、いや絶対にそうだ。
それから、なぜか心臓がぴりぴりと痺れた。
他人の日記を意図せず盗み見てしまって罪悪感に襲われながらも、ページをめくるのをやめられないような。鉛筆画は、スケッチブックの中の一枚で、どれも丁寧に描き込まれている。画用紙が生み出す凹凸の表面で若い中井教授は、笑ったり真剣に本を読んだりしていた。
間抜けな話、二人が同じ高校の先輩後輩だと聞いても、じゃあ実際にどんな間柄だったのかなんて、想像すらしたこともなかった。たった今の今まで。
デッサンの善し悪しなんてど素人にわかりゃしないけど、「ただの先輩後輩」以外の密接した雰囲気を読み取れたのは、紙の中の人物をよく知っているからだった。
ゼミでは決して見せることのない、くしゃっと崩したあどけない笑い顔。それは若さや成熟なんていうベクトルとは全く別次元の、目の前の描き手に対する情念の重みがあった。
つまり、仁藤への。
「わあ、すっごいいい絵ですねえ。こんなん描く高校生クラスにいたら、びびっちゃいますよね。…深町さん?」
水の中にいるみたいに、芽衣子の声がうんと遠い。何度か呼びかけられてようやく「ああ、うん」と心ない返事をする。
意識が現実に向かないまま、二人して駅に向かった。夕暮れ時で、哀愁漂う小道を歩きながら今日見たものを、仁藤に話してみるべきか迷っていた。一体どうやって?「高校生のとき、好きな人とかいたりしたんですか?」「昔、中井教授とどういう関係だったんですか?」…不自然すぎる。でも、真偽を確かめたくて仕方なかった。
「今日は、付き合ってくれてありがとうございました」
「え? ああいや、こちらこそありがとう。色々見れたし、教えて貰ったし勉強になったよ」
早く駅に着け、と念じていたことを悟られまいと、明るく返す。
「こういう夕暮れって、意味なく叫びたくなりません?」
「あはは、なんて?」
「例えば、深町さーん!」
おどけて遠くに声を飛ばす芽衣子に恵も続く。
「なんですかー!」
「私のこと、どう思ってますかー?」
横にいる芽衣子は茶化したような表情で二歩踏み出してこちらを振り返る。
「ありかなしかだったら?」
「芽衣子ちゃんはそりゃ可愛いし仕事も頑張ってるし、ありに決まってんじゃん」
「わーい。深町さんって、今は彼女いなかったですもんね」
「うん。去年の冬に別れたっきり」
「じゃ、私立候補しちゃおうかなあ?」
いたずらっぽく上げられる片眉を見て、どう対応するか咄嗟に迷ってしまった。百パーセント本気じゃないにしても、冗談でもそんなこと口にするなら、芽衣子にとって自分はまるっきり範疇外ってわけじゃないはずだ。てことはチャンスあるかも? とがぜん本気モードになるところだ。
…いつもなら。
でも今はなぜだろう、細く開けた窓から吹き込む強い風がやたら心に響いてうるさかった。芽衣子のきゅっとあがったアヒル口、ケバすぎないメイク、服のセンス、困ったら素直に頼るとこ、…どれもドンピシャで好みなのに。
「なーんてね。もう、冗談ですよー」
少しの沈黙の末、芽衣子は吹き出した。今の会話を全部なかったことにしようとするような、からっとした笑顔を見てから、やっぱり本気だったんだと思った。
「えっ何だよ、逆にヘコむわ」
でも、恵も知らないふりを押し通した。なぜだろう、これ以上この話題に、踏み込みたくなかった。
「ヘコめヘコめー。だって深町さん、今日ずっと心ここにあらずなんだもん」
女はたまに、嫌になるくらい鋭い。
「…ごめん」
「気になる人、いるんですね?」
確信に近い問いかけだったので、恵の方が焦ってしまう。今日ずっと頭に浮かんでいた人物をびしっと指摘された気分だった。
「いやいや、そういうんじゃ全然ないよ。ぜんっぜん! ただ色々出来ないことが多くてさ、ほっとけないだけで…なんていうか手のかかる赤ちゃんみたいな、わかる?」
「ふーん」
芽衣子は意味ありげに顎を上げる。
「まあそういうことにしといてやりましょう。これでもしくっついたら赤ちゃんを手にかける犯罪者! ってわめいてやりますからね」
「いや、ないない。そんなこと絶対ないから」
第一、相手は赤ちゃんどころか二十も年上だ。断じて好きではない。仁藤が男とか年上とかはひとまず横に置いたとしても、今まで抱いてきた『好き』という感情とはまるで違いすぎる。
だって過去にしてきた恋愛の入り口はずっと、真夏の晴れた空のように清々しかった。そして何より恋に落ちる瞬間をちゃんと自分で認識もしていた。『あ、俺この子のこといいなって思ってる』と。
だから、こんな風にとりとめもなく気づけば悶々と相手のことを考えてしまうような状態を指す言葉ではないはずだ。この感情に名前があるなら、誰か教えて欲しい。
芽衣子と駅で別れるころには太陽もとっくに門限を迎え、七時を回っていた。遅いから今日はやめとこうかなと思うのだが、やっぱり足は仁藤の家に続く電車のホームに向いてしまう。
ただどうしても、仁藤の不機嫌そうなあの顔が見たかった。
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