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 何度か呼び鈴を鳴らしたが返事がない。  集中していて耳が留守なのはいつものことだから、もらっている鍵で中に入った。  どうせ朝と同じ体勢でいるんだろうと真っ先にリビングに直行するが、予想に反して仁藤の姿はなかった。  書きかけの絵の麓にあるパレットに絞り出された赤色の絵の具は使われないままつやを失って膜を張っている。  おかしいな、と思って一階をくまなく探してみるが、どこにもいない。 「仁藤さん?」  二階の寝室を少し遠慮がちに開けてみると、むわっとした熱気が開いたドアから途端に逃げた。  大きく扉をひらくと、暗い室内で足下にある練炭のかすかな炎が目に飛び込んだ。嫌な予感がしたがいつもの変なジョークかなんかだろうと気にせずそしてベッドには、横たわる仁藤がいた。いつもの変なジョークかなんかだろうと気にせず声を掛ける。 「もう、何のまねです? またジョークですか? てか暑いでしょこんな時期に」  しかし、その身体はピクリとも反応しなかった。  慌てて窓を全開に放ち、ぐたっと力の抜けた重い身体を思いっきりゆする。 「仁藤さん、仁藤さん! 何やってんすかっ!」  最悪の事態を予想して震える手で携帯を取りだしてみるが、こんなときに限って救急車は911だったか119だったかはたまた110か思い出せない。もしかして117か? と混乱しながらかけてみると時報に繋がってしまい何度も終了ボタンを連打する。 「くそっ」  すると、けだるげにうっすらと仁藤の瞳が開いた。 「なんだ……お前か」 「お前かじゃないでしょ、なんなんだよこれは!」 「…見りゃわかんだろ」 「そんなことしたらマジで死にますよ!」 「…マジで死のうとしてんだよ」 「はぁああ?! 何言ってんの?!」  恵ははらわたが煮えくり返るほどむかついていた。  今日たまたま夜に寄らなかったら、仁藤は本当に死んでいたかも知れないのだ。  そんな簡単に、生と死の境目を越えようとする男を理解できなかった。 「別に、…よくあることだ。明日何食べようかな、散歩にでも行こうかなって、同じ気持ちで明日死のうかなって、思うときないか」 「ねえよ! なんで!」 「絵が、……描けない」 「絵?!」 「思うように指が、動かない」 「そんな理由で自殺しようとしてんのかよ!」 「そんな理由だと!」  かっと目を見開いた仁藤は、恵以上の気迫で大声を上げる。 「お前にはわからない! 日に日に動かなくなっていく指が、石みたいな腕が。なめらかな一本線も引けなくて、円を描くだけの作業を何回も何回もやり直して、このまま何にも描けない日が来るんじゃないかって毎日恐怖で…っ! 頭に思い描いたことをキャンバスに落とせない苦しみなんか、お前にはわかんねえだろ!」  恵を睨み付けていた目がふと天井を見上げ、歪んだ。堪えるように噛まれた下唇を見て、少しだけ頭が冷静になった。 「…いつから、病気なんですか」 「三十過ぎて、絵がばんばん売れるようになってから。…皮肉だよな。発症して周りから色々言われた。もう十分有名になったからいいだろ、売れた後で良かったな。死に至る病じゃないって、進行も遅いし重症じゃないから大丈夫って医者はいまだに言うよ。気をつけていれば天寿を全うできる? 笑える」  乾いた笑いが静寂の部屋に響いた。  仁藤は自分の力でどうにか上半身を起こす。 「俺は普通の幸せもパートナーと生きることも何もかも全部諦めて、絵だけを選んだのに。俺にはもう絵しか残ってないのに。なのになんで、よりによってこの病気なんだ…っ」  開いた自分の両手を見つめる瞳が、みるみる満たされる水分の厚みで揺れていた。それでも涙がこぼれることはない。  人と極力会わず話さず、筆をひたすら持ち続ける仁藤を、ずっと後ろから見ていたこの数ヶ月を恵は思い返す。同時に、中井教授の笑顔が浮かんでは消えた。 「絵が思うように描けないで生きてたって、息してる意味なんかないんだ。もう俺は死んでるんだよ! だったら、こんな命なんてあったって無駄だ!」  思わず仁藤の頬を叩いてしまっていた。青白い皮膚がじんわりと赤く染まる。使われなかった赤の絵の具を思い出した。 「ああ、わかんねえ。俺には仁藤さんの苦労なんかちっともわかんねえよ。凡人で若造で、馬鹿だもん。でもな、これだけは言わせろ。甘っちょろい自殺なんかしてんじゃねえ。生きてるのが嫌ならせめて今までで一番もだえ苦しんで死ね。崖から飛び降りろ、海で溺れろ、猟奇殺人鬼に身体切り刻まれて息絶えろ! こんな一酸化炭素中毒なんかでゆらゆら夢うつつで死のうなんて思ってんなよ!」  何か言いたそうな仁藤を制して、恵は立った。 「…立てよ。来い」  まだふらふら頼りない肩を持って、無理矢理起こした。靴を履かせて引きずるように外に出す。仁藤の足がもつれていて、歩くのがままならなかったので、途中からはおぶって歩いた。 「どこ行くんだよ」 「来ればわかる」  何度も通って発見した、仁藤の家と駅までにぽつねんと立つ、もう使われていない金属工場だった。  今にも崩れ落ちそうならせん階段を仁藤を背中に乗せたままこんこん上る。屋上まで上りきると五階建てくらいの高さは十分にあった。  ついこの前、夜に帰っている最中人影がちらついて、侵入できることに気づいたばかりだった。不良集団が酒盛りをしていたのだ。 「ほら」  ぽんと、肩を乱暴に投げた。ここへ連れてきたことをどこかで後悔しているのだけれどもう片方のぐつぐつ煮え立った苛立ちがどうにも収まれない。  何に対する怒りだというのだろう。  生きたくても生きれらない人たちに失礼だとか、テレビや本にある不治の病に冒された人々に共鳴してるわけでは決してないのに。 「飛び降りろよ。この高さなら十分に死ねるだろ」  仁藤は立ち上がった。一歩、自分で踏み出す。  錆びてボロボロの手すりから身を乗り出して、じっと仁藤は下を見ていた。酒を飲んでもいないのに時間の感覚がぐらっと歪んで、その間が十分なのか一時間なのかわからなかった。  そして自分の怒りの正体に気づいた。  これはただの、個人的な恐怖だ。  あの瞬間もしかしたら本当に死んでしまったかも知れない、仁藤のいない世界で置き去りにされた自分を想像したときの畏怖に対する身勝手な怒りだった。 「苦しんで死ねってさっき言ったけどさ。死ぬ瞬間には、人間はほんとは痛くないんだってよ」  遠い地面を覗き込む背中に、強く投げつける。暗い夜に紛れて、その背中は消えてしまいそうだ。 「苦しくて苦しくて、怖くて怖くて、それを乗り越えるために脳で異常な量のドーパミンがどばあって流れるから、本当に死ぬ瞬間人間は超絶に幸せなんだってさ。痛みも感じないくらい。だから死ぬときって人生で一番気持ちいいはずなんだ」  風が強く吹いて、仁藤の華奢な身体がぐらりと揺れた。  風船みたいに飛ばされそうだ。 「それってさあ、神様が最後にくれるご褒美なのかもな。頑張って生きたな、よくやったなって。その説、本当だったのか教えてよ。俺が死んだら、天国で」 「お前は、天国に行けると思ってんのか」  ぽつんと、独り言に似たつぶやきが闇夜に響いた。 「そりゃ思ってるよ。ああでも仁藤さんとは、天国では会えないな。自殺って一番罪重いんだっけ」  ははは、と乾いた笑いがこぼれた。今までの仁藤の嘲笑を全部帳消しにするかのように、男を心からあざ笑った。 「そんなことあんたならとっくに知ってっか。でも自分で死ぬやつなんかな、地獄にだって行くんじゃねえよ」  はっと振り返った顔が、眉が、目が頬が、口が、全部が歪んでいた。  その悲痛な表情を見たら、考えるよりもう仁藤のシャツを引っ張りあげていた。 「描けよ、馬鹿」  病気なんて何でもないフリして鋭い牙を剥くことで他人を寄せ付けないで、背中に負った傷は隠して、一人でどんどんボロボロになって。  でもその精一杯の嘘を見抜いてしまったのが、引き剥がしたのが自分でよかったと思った。 「筆が持てなくなったら腕にくくりつけて描けよ。俺が紐でくくりつけてやっから。それでも駄目だったら口にくわえて描けよ。俺がくわえさせてやっから。だから、どんなに手足が思うように動かなくなってもあんたは描き続けてろよ」  その目から、涙が一筋すうっと流れた。  続けて崩れるようにこちらに身を投げた。  胸で、わんわん泣き叫ぶ仁藤をただ両手で受け止めた。  それしかできなかった。  でも、それでいいんだと思った。    幼い声で泣きじゃくる仁藤を、ただ胸に収めて抱きしめる。  たまたま仁藤が描いた昔の絵を見たのが今日で、たまたま芽衣子を異性として意識したのも今日じゃなかったら仁藤の家に寄らなかったかもしれない。惑星直列みたいに、偶然が重なって仁藤を助けられたんだとしたら、絶対に自分が今ここにいることに意味があると思えた。 「あんたがつらいこと悲しいこと腹立つこと、全部俺が受け止めてやるよ。俺に吐き出しとけ。だから生きて、描いてろよ。勝手に一人で死のうとすんな」  小さく震えながら涙で恵の胸を濡らす男をそして、この腕で守りたいと願った。強く。 「仁藤さん、好きだよ」  口にしてみたら、じゃあ今まで培ってきた好きって一体何だったんだと思うくらいそれは何よりも正しい言葉だった。自分の心を隙間なくいっぱいに埋めるこの感情を表せる言葉があるとしたら、もうそれしかなかった。  そして、こんなぽっかりと日常から切り離された生と死の狭間で、好きと名付けたこの気持ちだけが一番現実世界に仁藤を連れ戻してくれるような気がした。右も左もまるで見えない暗くて心細い闇の中で、行くべき道をぼんやり照らしてくれる街灯ような、唯一確かな思いだった。 「お前、おかしい」  しゃくり上げながら仁藤は言う。 「何で」 「だってこんな、…倍も歳の違う、何も出来ない不良品なんか」 「よくわかってんじゃん」  肯定すると無言で胸をごく弱く叩かれた。 「でもいいじゃん、どう思われようと俺の気持ちは俺だけのもんだもん。人間不適合で生活能力ゼロのあんたのまんまでいいからさ。だから、もう帰ろう」 「全然話、繋がってない」  それでも仁藤は手を引かれるがまま、大人しく階段を降りた。  かんかんかんと、二人分の足音が地上に近づいていく。  三途の川から戻るような感覚で、一歩一歩振り返らずに踏みしめた。
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