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 自分には誇れるものがある、と胸を張って言える大学生がきょうび日本において何パーセントいるだろうか、と深町恵(ふかまちけい)は教授室に置いてある四季報をパラパラ捲りながら考える。  少なくとも自分はそうじゃない。だから自己評価シートなんかいつまで経っても埋まらないままだ。  短所ならすぐ出てくる。流されやすいところ、物事を深く考えないところ(深町なのに)。長所、うーん長所? 飲み会でそこそこ盛り上げられる鉄板ネタがいくつかあること、くらいか。 「そんなの長所でも自己PRでも何でもないですよ。自分が苦労や試練を通して成長したことを伝えないと」  三月の大学構内は世紀末ゴーストタウンのようだ。  あんなにそこかしこに人間が溢れていたグラウンドもカフェテリアも今は静まりかえり、ひっそりと四月の活気を待ち望んでいる。しかし講義前には並ばないと乗れない経済学部棟のエレベーターがすっと来たくらいで恵の憂鬱は晴れない。卒論のテーマを絞れず再度ドラフトを提出しにわざわざ来たのだ。それから就活の話になり、こんな弱音までこぼしている。自分にとっては人生一回目の悩みでも、中井(なかい)教授は何年も何年も聞き慣れた愚痴なんだろうに、嫌とも言わず付き合ってくれる。 「ですよねえ。でも教授」  本棚にマルクス資本論や経済書と紛れて置いてある土色で不気味な埴輪を一つ手に取る。どういう趣味なのか、秘境の地で魔術師から爪と引き換えに買ったと言われても信じれるおどろおどろしさがあるが、この教授のそういう不思議なとこも恵は結構好きだった。 「二十歳までのうのうと過ごしてきた俺にはそんな経験も誇れるもんも一切ないんですよ」  恵は分厚い四季報をついにぱたんと閉じる。大体、こんなに就職先の選択肢が多いなんてそもそもおかしい。高校受験も大学受験も自分の実力と日程を照らし合わせてせいぜい三、四校の中から選んだのに、四年後いきなりこんな膨大な数の会社から自分に合った一社を見つけろだなんて無理に決まってる。 「深町くんは自信を持って誇れるものがひとつあるじゃないですか」 「えっ何ですか?」  突っ伏した机から期待して顔を上げると、返ってきたのは「容姿」の一言だった。 「教授、それここ一ヶ月で一番ヘコみました」 「ほんとほんと。だって見た目は強い武器だよ。AくんとBくん同じ能力値だとしたら絶対外見の点数が高い方取るでしょう。印象第一っていうけどそんなの結局顔の良さなんだから。その点君は、背も高くていわゆる二十一世紀型イケメンで、愛想も良いし大分有利だ」 「その猫型ロボット的言い方やめてください。ずっとゼミ担なんだから、教授にはもっと内面的なことで賞賛を受けたかったですよ」  それに可愛らしい女の子にそう評価されるならともかくとして、所々白髪の交じる、親ほども離れた男性に言われても何も嬉しくない。 「はは、ごめんごめん。まあ真面目な話に戻すと、自己PRなんかは学校以外での活動報告なんかするといいだろうね」 「活動って、例えば?」 「どうだろう、人助けの経験なんかのエピソードは重宝される傾向にあるよ。ボランティアサークルとか、入ってみたら?」  白紙のプリントを見てミドルダンディは右手で作った拳を反対の手にぽんと乗せる。 「ボランティア…」 「人を助けてこう学びました、私はこう社会に貢献できます、と表名することが企業理念に同感しましただのあれこれ言うのなんかより何より武器じゃないかな」 「はあ…でも俺もうあと二ヶ月で四年ですよ。今さらサークルに登録してもあんまり意味なくないですか?」 「まだ滑り込みで間に合います。そうだ。私の知り合いで一人、介護を必要としている人がいます。深町くん、いっちょ社会貢献、やってみませんか?」  そんなやりとりをしてから一週間後の今、レンガ造りが豪華な洋風一軒家の門前に恵は立っていた。  事前情報は住所と名前しか聞いていない。インターホンを押すとしばらくしていかにも不機嫌そうな「はい」が返って来た。 「あ、中井教授のご紹介で伺いました、深町です」  無言でドアの施錠が解除される音がする。これは入ってもいいということかな、と恐る恐る重そうな扉を開けた。 「お邪魔しまーす…」  長い廊下の奥から人が出てきた。整った顔立ちをしているが薄い唇や尖った顎で何より神経質そうな印象だった。  体軀は服の上からでも骨と皮だけだとわかるほど一見して細いのだけれど、立っているし歩いているしどこも介護を必要とするような不自由な身体には見えない。家族かなんかだろう。もとより、幼い。全体的な輪郭を見れば確実に恵より年上には間違いないのだろうけれど、局所のつるっとした肌やまっすぐで黒々した髪の毛からはなぜか幼いという言葉を思いついてしまう。子供と大人が混ざりきらず共存しているような不思議な雰囲気を纏った男だ。 「初めまして、私本日から仁藤柊吾(にとうしゅうご)さんの介護をさせて頂く深町恵と申します」 「お前か。めぐみっていうからどんな女子大生かと思えば、おいおい電柱みたいな大男が来たな」  男は恵を一瞥してふん、とつまらなそうに口元を歪めた。なんだこの男。 「先輩から話は聞いてる。介護だなんて笑うわ」  わかったから早く本人を出せ。 「えっと、めぐみじゃないくてけいです」 「どうでもいいな」  わかったから早く本人を出せ。 「えっと、それで仁藤さんはどこにいらっしゃいますか?」 「仁藤柊吾は俺だ」 「えっ?」  ぶそんな態度で言い放つ男を目を丸くして頭からつま先までくまなく見やる。よぼよぼのお年寄りを想定していたのに、想像上の人物より半世紀くらいは若い。 「だから言っただろ。俺には介護なんていらねえんだよ。ましてやお前みてーな馬鹿でかいだけの補助犬もな。この通り不自由ねえ」 「はあ…」  初対面の相手をいきなり犬扱いとは、何事だ。こんなに態度の悪い『いい歳の大人』と対峙したのは初めてのことで、恵はどう反応していいかわからない。鋭利なジャックナイフを振り回すみたいに口から出る乱暴な言葉使いに絶句した。  しかし、本人の言う通り確かにどこをどう見ても身体が悪そうには見えない。…口以外は。まさか精神疾患的な何かか? と危ぶんでみる。  中井教授は自分の体格を評価して多少未経験でも老人の介護を任命したのだと勝手に解釈し今日はここまで来た。事実体力には実際そこそこ自信があった。でももし男が本当に精神的なサポートが必要だとするならばそれこそ未経験の門外漢、適切に対応出来る自信はもっとない。 「さっきからはあはあうるせえな。もっと気の利いた返しできねえのか? まあいい、今回は先輩のいいつけだからしょうがねえ、お前のくそどうでもいい就職活動に加担してやる。せいぜいくだらん企業に雇われて立派な社畜になれよ」  本人に会ったら頻度や時間は話し合いで決めてね、と中井教授には言われている。今思えばあれは完全にはぐらかした目だった。 「あの、それで僕はこの家で何をすればいいんでしょうか」 「んなもん知るか。俺はとりあえずお前が訪問するのを受け入れるだけだ。勝手に決めろ」 「頻度は…」 「うっせーな、だからてめーで決めろっつってんだろ! 今時の大学生は日本語もわかんねーのかよ、ああ? 就職より小学校に入り直せ」  恵の不安をよそに、言い放ったら背を向けスタスタと引っ込んでいく。  はいじゃあお邪魔しましたーとよっぽど帰ってしまいたい一心だったがそれでは白紙の自己PRは埋まらない。せっかく提案してくれた教授のメンツも潰れてしまう。付け焼き刃でいい、形だけでも良い、とにかくボランティアを経験しましたと書けるだけの期間はせめて通わなくては、と恵は渋々靴を脱いだ。  廊下から続く一つのドアを開けるとその先には見晴らしの良いダイニングが広がっていた。部屋の最奥には恵の身長よりも高くて大きな窓が四枚続きで並んでおり、そこからは木々がうっそうと茂る大きい庭が一望出来た。そして窓の前にはイーゼルが一つ立っていて、周りには画材やらなんやらが無秩序に散らばっている。  一足先に居間に入っていた仁藤は脚の短い椅子に座ってもう目の前のキャンバスに細い筆を走らせていた。絵を描くのがただの趣味なのかそれともれっきとした職業なのかはわからない。 「すご、おっきい庭ですね…」 「おい電柱」 「は、はい」 「忠告しておく。俺がここに座ってる間は一切しゃべりかけんな。暇なら外でボールでも追いかけてろ」  とにかくもう一度声を掛けようものなら、今度こそ本物の刃物を喉元に突きつけられそうで恵は静かに外に出た。他に思いつく事もない、とりあえず明らかに荒れている庭の草むしりをすることにした。  手を付け出すとそこは太陽の光が差し込む隙間もないほど荒れ放題伸び放題で結構やることがある。とりあえず当分はこれで持ちそうだった。しかしボランティアがまさかの土いじりとは。窓の外からもキャンバスと、こちらには一瞥すらくれず真剣に絵を描いている仁藤の姿がこちらから見える。  一体何者なのだろうと思いながらもひたすら草をむしってはゴミ袋に入れる作業を繰り返していると気づいたら景色はすっかり夕日でオレンジに染まっていた。
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