泥棒の神様

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 僕はニーチェの言うおしまいの人間と関わりたくない。となると、必然的にコミュ障になる。大半がおしまいの人間だから。仮におしまいの人間と話しをすると、まるで馬が合わないという以前におしまいの人間が枝葉末節にしか触れず肝心要の勘所に触れようとしないばかりか縦しんば触れたとしても全く解しないから話にならないのだ。こんなことを述べると、高慢ちきと思われるかもしれないが、丁度、芸術家がスノッブに対し、お前は何にも分かっとらんと言わざるを得ない関係に近い。憚りながら要するに群盲象を撫ずということだ。だから多数派のおしまいの人間の常識的な観点から見て僕は謂わば、芸術家のようには理解されず単なる変わり者と見做されレッテルを貼られることになる。酷い奴になると、健常者または発達障害者または統合失調症者、もっと酷い奴になると、サイコパスと烙印を捺す。で、面接官も例に漏れずおしまいの人間だから僕は見切られ、面接で悉く撥ねられる。  そんな苦境にあり、孤立せざるを得ない僕は、T駅西口と接続するペデストリアンデッキに来てベンチに座り、朝だから駅の周りをおしまいの人間の権化たるサラリーマンがひっきりなしに通り、行列を為すのを高みの見物と称して俯瞰する。高次元から低次元を眺めるようなものさ。それはマウリッツ・エッシャーのリトグラフ「上昇と下降」に準えて言えば、上の2列階段を上り下りする者の列を下の中庭でフェンスに寄り掛かりながら悠々と眺めている者とパラドックス的にリンクするし、また、自分がドロップアウトしていることを意識すると、下の階段に座り込み、途方に暮れているように見える者と自分がダブる。  僕はおしまいの人間と同化してしまう恐れはないけど、一時的にも同じ行動を取ることが忌まわしく思われるから皆と同じようにして集団行動を取ることに全くの不本意を感じ、自嘲する結果、甚だ照れてしまい恥ずかしくなるので、あれには加わりたくない、あれに加わると、ストレスが溜まって独りになってやっと人心地がつくんだ、だから採用されなくてラッキーと敢えて思うのだ。  大体、あの行列に加わる為に毎朝、目覚まし時計に叩き起こされる、それだけでもうんざりするのに電車の中でも通勤ラッシュに遭ってもみくちゃになって呻吟するだなんて全く嫌気が差すこと夥しい。そんな目に遭わなくても良い、だから採用されなくてラッキーと重ねて敢えて思うのだ。  けれども僕は極月を迎えようとするこの時期に年を越せるかどうか分からない状態にあるのだ。仮令、年を越せたとしても此の儘、収入がなければ、金は年明け早々に尽きてしまうだろう。嗚呼、神様、こんな僕にご慈悲を!どうか、僕に仕事をください!と心の中で切なる願いを叫んだ。  すると、折しも僕の方へ紙切れが木枯らしに吹かれて舞い降りて来た。それはまるで僕に見て欲しいと言わんばかりに僕の足元に落ちて留まった。  チラシかと思って僕はそれを拾って見た。 「コミュ障の方でも出来る仕事をカウンセリングを兼ねて紹介します ○✕仕事紹介クリニック」とあった。場所はT駅東口を出て徒歩3分の所にあるDビル(雑居ビル)地下一階とのことで、開店時間は午前9時とあるから、もうやってるに違いない。  これは自分にとって願ってもないチャンスのように思えた僕は、いっちょ行ってみるかと思い立ち、腰を上げた。
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