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前夜
レースのカーテン越しに、降ってくる月光。真っ暗な闇夜を照らす冴え冴えとした光は、細くて視界の効かない路地裏までをも明るく照らし、その先にあるどこか非現実な世界へと誘っているようにも感じられる。
ベッドに起き上がった佐伯美沙は、隣に眠る夫の和馬を起こさないように、そっとレースのカーテンをくぐり、丸い月が織りなす幻想的な景色を眺めた。
夫の転勤でこの土地に越してくるまで、夜空を見上げることなど殆どなかったように思う。見ようとしたところで、マンションが連なった都会の空は、端切れのように小さく裁断されているばかりか、生活の光に邪魔をされて、星さえも認めることができなかったからだ。
それが、今はどうだろう!
寝静まった部屋にまで神々しい光が降り注ぎ、月自体が投影機の役割を果たして、辺りに怪しくも不思議な雰囲気をまとわせている。道を横切る動物の影が、突然狼男に変っても、この瞬間ならそんなに驚くことはなく、妙に納得してしまうかもしれない。
月に満ち欠けがあるのも、人が月に魅せられる理由の一つだが、形を変える原因が科学的に証明された現代でさえも、神秘的だと思うのだから、昔の人が神様と月を結び付けて、豊作やら、安産などを願ったのも頷ける。
「安産かぁ‥‥‥」
吐息と共に小さな声を漏らした美沙は、自分の平らな腹を撫でて苦笑した。
安産どころか、結婚して四年も経つのに、妊娠の兆候は全く見られないのだ。
こんな満月の夜は、迷信と分かっていても、月の神に祈らずにはいられない。
どうか、赤ちゃんが授かりますように。
見上げた月が滲んで、金色の光が視界一杯に広がった。
「どうした?眠れないのか?」
「あっ、起こしちゃった?ごめんね。ちょっと月の女神さまにお願いをしていたの」
「月?明るいと思ったら、そういえば明日は中秋の名月だな。どんなことを願ったんだ?」
和馬もベッドに起き上がり、美沙の隣に並んで空を見上げた。
「へへ……内緒。それより見て。月にうさぎがいるって昔の人は言ったけれど、本当にいるように見えるわ」
「美沙はロマンチストだな。僕なら空気の無い月に動物が住めるわけないって思ってしまう」
「和馬って、夢が無さ過ぎる。信じる者は救われるってことわざがあるぐらいなんだから、そんなに現実ばかり大切にしていると、いざって時、チャンスを逃しちゃうわよ」
「それは、ことわざじゃないよ。美沙は二十八歳にもなって、精神年齢はお子ちゃまなんだから」
ムッとする美沙をからかいながら、和馬がそこがかわいいんだけどと言って、美沙の肩に手を回した。
「日本の月神への信仰と、外国の月の女神であるディアーナへの信仰は共通している部分があって、昔の人々は豊作や安産、多産を願ったらしい。国が違っても、月に対するイメージが同じなのは興味深いな」
「へぇ、外国でも月の神様に豊作を願ったの。面白いわ。さすが和馬は物知りね」
和馬に自分の願いを見透かされてしまったように感じて気まずくなり、美沙は赤ちゃんに関してのことを口に出せない。そんな美沙を気遣うように、和馬が肩に回した手で、美沙の腕を優しくなで下ろした。
「僕も祈るよ。でも、あまり思いつめないようにね。僕は二人でこうして月を見上げるだけでも、幸せだと思うから」
「……うん。ありがとう。和馬。じゃあ、二人で豊作を願いましょう」
和馬が笑いながら、素直でない美沙を小突く。太陽と違って温度なんか感じないはずなのに、今夜の月は暖かいと美沙は思った。
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