硝子の十字架

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硝子の十字架

「我が神クリストファー、申し訳ありません。お願いします、どうか、どうか御許しください……!」  頭が禿げ上がったその男は、両手で必死に妻と子の頭を床に押さえつけ、クリスの前に平伏した。 「懺悔します。妻はあろうことか、神父様にお祈りして貰ったにも関わらずそれを信じず……息子の病を治すためという名目で、あろうことか山の上の魔女のところに薬草を貰いに行きました。神の威光を信じぬ愚か者でございます。私からはしっかり言い聞かせますので、どうか妻と子を御許しください……!」  男の全身は恐怖で震え、青ざめた顔は今にも倒れそうである。だがそれ以上に酷いのは、彼が地面に土下座するように頭を押さえつけている妻と息子だ。どちらも鞭で打たれた痕が痛々しく手足に残ってしまっている。息子などはまだ、七つにもなるかどうかといった年であろうに。  きっとそれをやったのは信心深い夫で、そうでもしなければ天罰が下るとでも信じたのだろう。きっと怖かったに違いない。ましてや話が正しいのなら、息子はまだ病から回復したばかりであるはずである。まだ顔色が良くない。本当は教会になど来ないで、家で安静にしていた方がずっといいはずだというのに。 「……山の上のおばあさんは、魔女なんかじゃないよ。少し博識な民間療法士さんだよ……」  無駄とわかっていても、クリスは言うしかない。 「そんな風に頭を押さえつけたら可哀想だよ。僕は天罰なんか与えない。お願いだから、早くその二人をお医者さんに連れていってあげて。特にその男の子、このままじゃまた風邪がぶり返しちゃうよ……」  この国に“クリストファー神教”が出来た頃は。まだ、クリスと会話をすることのできる国民も多かった。彼らはクリスの言いつけ通り隣人を愛し、無闇に人のモノを欲しがらず、慎ましく平和に暮らしていたはずだった。  いつからだろう。権力者達が、自分達の都合のいい方向に聖書を書き換えて、宗教を理由に争いを始めたのは。どんな命でも平等にと教えたはずなのに、いつの間にか“神様と同じ金髪の人間は特別だ、黒髪の人間は悪魔の使徒だ”などという差別的な項目が書き加えられ。  どんな人との間であっても、愛とは貴いものであると教えていたのに――いつの間にやら偏見の強い者達のせいで“同性愛は神に背く行いだ、この世には異性愛以外に認められるものはない”などと勝手に書き換えられるようになってしまった。  クリスが伝えたかったことが、どんどん失われて崩されていく。それに伴い、信者であるはずの国民達も、クリスとの親和性が失われるようになっていってしまったのだった。もはやこの国で、クリスの声がまともに聞こえる信者は殆どいないと知っている。彼らは、教会に佇むクリスの姿をぼんやりと見ることしかできないのだ。 「今の聖書は正しくなんかないし、そもそも科学が進歩すれば聖書の間違いが明らかになることだってある。……それを否定しないでよ。その子の風邪が良くなったのはお祈りのおかげじゃなくて、おばあさんがお薬をくれたおかげなんだよ……?」  いくら諭すように告げても、彼らにクリスの声は届かない。ただうっすらぼんやりと見える困った顔の神の姿を、自分が望んだ方向に自己解釈するばかりなのだ。 「ああ、申し訳ありません、神様!お許しを、お許しを!」  男はクリスの願いに反して、ひたすら震えながら妻と子の頭を押さえつけ、平伏するばかり。クリスは泣きたい気持ちでいっぱいになった。  いつからだろう。この世界が正しく歪み、元に戻らなくなってしまったのは。
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