【バイバイ、お兄ちゃん……】

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3d24e69a-30f1-4e78-b9d8-aaced1aca428【バイバイ、お兄ちゃん……(1/3)】  ********************  35.“此花桜子”の消失  失くした記憶が戻る、その瞬間を桜子は、開け放たれた扉から溢れる奔流に呑み込まれる……そんなふうにイメージしていた。  しかし実際には、広くて暗い部屋に、ひとつずつ照明が点いていくような……当然のようにそこにあったのに、見えていなかったものに光が当たっていくような、そんな感覚で記憶は衝撃を伴うことなくよみがえってくる。  あたしは――……  あたしの名前は、“此花桜子”。  中学二年の、女の子。  学校で仲がいいのは、“サナ”こと平野早苗と、“チー”こと都島千佳。 (アズマ君……アズマ君がいるよ……)  家族構成は、おとーさんとおかーさん、そして兄が一人いて…… (お兄ちゃん……大好きな、お兄ちゃん……)  光が、草原を渡る風のように、彼方までさあっと薄闇を追い払った。  桜子は、“全て”を思い出した。  **********  小さな子どもの頃のこと、小学校の時のこと、中学に上がってからのこと……あの日、走って来る自転車から小学生を庇おうとして、ガードレールに頭をぶつける瞬間から、今この瞬間までが、途切れない一本の記憶としてつながった。  運動会とか遠足とか、卒業式とか。誕生日とか家族旅行とか、クリスマスとか。思い出に残る大きな出来事と、何でもなく過ごした日常が、たくさんのアルバムをばらばらと捲るように、浮かんでは沈む。 (どうして、今まで忘れていたんだろう……)  こんなにも当たり前で、すぐそこにあった自分自身(あたし)のことを。記憶は“失くした”のではなかった。そこにあるのに、ただ、桜子の目から見えなく覆い隠されていただけだったんだ。  桜子の中でようやく、“おかーさんとおとーさん”が、頭で両親だとわかっているからそう呼んでいる人ではなく、“桜子のおかーさんとおとーさん”になった。生まれた時からずっと傍にいて、愛してくれて、時には叱られた、桜子にとって大切な家族だと、心にすとんと落ち着いた。  けど……もう“一人の家族”は…… (この人は、誰……?)  **********  桜子の心象風景の中で、その少年は背を向けて立っていた。  桜子は、その少年の顔はわかる。どんな性格をしていて、何が好きで、自分に対してどういうふうに話し掛けてくるのかも知っている。桜子に何かがあれば、必ず抱き留めてくれる人であることだってわかるのに……  その人が誰なのかわからない。 「“りょーにぃ”じゃん?」 「“お兄ちゃん”だよ!」 「“遼太郎さん”ですよ……///」  気がつけば、心象風景に少年を取り囲むように、三人の少女が現れていた。右側にはニッと笑った幼い感じの、左側は胸の前で指を組んではにかんで、もう一人は少年と向き合うようにいてハッキリと顔は見えない。  けれども桜子には、その三人ともが“桜子”だとわかった。そして、三人の言い分がどれも正しいことも知っていた。  その少年は、 “りょーにぃ”で“お兄ちゃん”で“遼太郎さん”だった。  桜子の知る“お兄ちゃん”は、優しくてカッコ良くて、いっぱい遊んでくれて、どこへだってついて行きたい、大好きなお兄ちゃんだった。  桜子が泣いてしまって、そのまま眠ってしまっても、抱っこでベッドまで連れてってくれるし、寂しい時は大きな手でポンポンと頭を撫でてくれる。  “妹”としての桜子は、その少年をそう思っている。  桜子の知る”遼太郎さん“は、初めて出会った日にひと目惚れした、素敵な年上のお兄さん、大好きな男の人だった。  一緒に暮らす桜子をいつもドキドキさせ、そのクセ桜子がちょっと迫ると慌てて照れたりする、可愛い人。デートをしたことも、キスだってしたことあるんだ。  “女の子”としての桜子は、その少年をそう想っている。 「はあ? バカじゃないの、キモイし」  少年の向こうから、最後の少女が桜子に向かってそう言った。  桜子の思い出した“りょーにぃ”は、ウザくて、ダサくて、顔は悪くないクセにオタクだし、デリカシーもないダメ兄だった。  最近じゃほとんど口も利かないし、一緒にいられるとこ友達とかに見られたくないし、“大好きなお兄ちゃん”とか“大好きな男の子”とか、ありえないし。  記憶を取り度した“本当”の桜子は、その少年を前にそう主張する。  桜子は……“今”の桜子は、どの言い分も正しいことも理解している。  **********  と、“妹”が二ッと笑い、“女の子”がニコッと微笑んで、すっと振り返った。二人はそのまま、桜子に背を向けて歩き出す。  同時に“本当”の桜子が、こっちに向かって足を踏み出した。そして三人が擦れ違った瞬間……”妹“と”女の子“の姿がフッと消えた。 「え……?」 驚いた桜子は、自分の両手が、指先からさらさらと溶け始めてことに気づき、さらに目を見張る。 「えっ、何で……?」 「当然じゃん。あんた、もう“いらない”んだからさ」  桜子を顔を上げると、正面に立った“本当”の桜子が笑っていた。もう見慣れた鏡の中の女の子だったが、どこかイヤな表情だった。 「“いらない”……?」 「そう。“本当”のあたしが帰ってきたんだから、“偽物”のあんたはもう“いらない”……当然でしょ?」  “本当”の桜子は、今までの自分にバカにするようそう言った。  桜子の溶けていく手が、色を失い、透き通る。“本当”の桜子はそんな桜子の前で腰を折り、上目遣いで笑っている。 「あの“二人”だって、記憶がなくなってバラバラになったあたしの一部なの。記憶が戻れば、またあたしとひとつになる“一部”……」 そうだ……事故で壊れて砕けた“桜子”達の記憶、元々はどれも一人の“桜子”、この意地悪く笑う少女のカケラだったのだ。 「あんたの存在は、あたしが帰って来るまでの代役でしかないんだ。まあ、人のいない間に、結構ムチャクチャしてくれたみたいだけど」  “本当”の桜子が、腰を伸ばしてケラケラと笑った。 「あはは、あのダメ兄好きになるとかありえないでしょ。て言うか、兄妹じゃん。うえっ、キモチワルイ」 その言葉は、“今”の桜子を酷く傷つけた。けれど、この子の言い分もわかる。かつての桜子がそう思う気持ちを、“今”の桜子も思い出している。  小さい頃はずっと仲が良くて、けど、中学生と高校生になると、お互いちょっとずつ鬱陶しい存在に感じるようになって。たぶん、そういうのは思春期の兄妹には当たり前で、正しくて……たぶん、間違っているのは桜子で…… (でも、あたしは……)  本当にお兄ちゃんが好きで、その気持ちだけはあたしだけのもので、たとえこのまま消えるとしても、この恋が在ったことは、嘘じゃあなかった……  泣き出しそうな顔で唇を引き結んだ桜子を、“本物”の桜子は軽蔑するような目で見て、言った。 「ま、あんたのキモチワルイ恋心も、あんたと一緒に消えちゃうんだから、別にイイんだけどね」  そして、わざとらしく胸の前で指を組み、小首を傾げて可愛らしい顔をする。 「そうだなあ……あたしの記憶のない間、あんたが過ごしてきた毎日の “記憶”は確かにある。そういうあんたの残り滓くらいは、あたしの中に引き受けて覚えててあげるよ。だから、安心して消えてね」 “本当”の桜子が、残酷に笑った。 「ともあれ、代役ご苦労様。今までありがと」 「じゃあね。バイバイ、“桜子”――……」  その言葉を聞いて、消滅が一気に加速した桜子は――……  **********  最後の力で、“本当”の桜子に首に抱きついた。 「な……っ?!」 「そうだね……あなたが“本当”の桜子だもんね……きっと、あなたが言うことが、あたしにとっても”本当“のことなんだと思う……」 「けど、あなた、ひとつウソをついてるよね……?」  突然のことに目を白黒させる自分の顔に、桜子は微笑み掛ける。 「あなたは“本当”の桜子だ。けど、あたしだって、あなたの一部なんだ。あたしがお兄ちゃんのことを好きになったんだから、あなただって、本当はお兄ちゃんのことがキライなんかじゃないはず……」 「んあっ?!」  虚を突かれた“本当”の桜子の顔に、“妹”と、“女の子”が、交互に現れた。それを見て、桜子は嬉しくなる。 (二人とも、ちゃんとそこにいるんだね……) (じゃあ、あたしがいなくなっても、大丈夫だ……)  顔を真っ赤にして狼狽する“本当”の桜子の耳元に、桜子は囁いた。 「“自分(あたし)”にはウソはつけねーんだぜ?」 「なな、何言って?! あたしは、りょーにぃなんか好きじゃねーし!」 桜子はクスっと笑い、もう一人の自分の耳をはむっと噛んだ。 「後、桜子は耳が弱い」 「ひやあんっ?!」 それから、目を回した自分とおでこをぴたっと合わせる。 「あたしが覚えた、エロい知識も持ってけ」 「何これ、何これ、何これえっ?!」  例のエッチな漫画の記憶を感染(うつ)されて、“本物”の桜子の頭がぼしゅうっと湯気を上げた。  何だかんだと言って、結局…… (“桜子(あたし)”は“桜子(あたし)”なんだなあ) だから、大丈夫。きっと、大丈夫……  あたしは、消えても、この思いは消えない――……  最後にやりたいだけのことをやって、桜子は“本当”の自分を抱き締めると、 「あたしがいなくなっても、お兄ちゃんと、仲良くね……」 「う……うあ……」 どくん、どくん……二つの自分の鼓動が重なるように響く。  その時、背を向けている少年が振り返った。その顔を見て、その眼差しを見て、桜子にはもう、その人が誰だかわかっていた。 (さようなら、あたしの恋心……) (さようなら、あたしの“大好きだった人”……)  そして桜子は、光の塵になって、消えた。  永い夢から覚めるように――……  **********  桜子は目を開いた。 「桜子、大丈夫か……?!」 するとそこには、目に涙を浮かべる遼太郎の顔があった。  ぼんやりする頭で周りを見回すと、そこは家のリビングで、遼太郎の腕に抱かれている。心配するあまり泣きそうな遼太郎に、 「お兄ちゃん(・・・・・)、あたし……?」 「お前、一瞬気を失ったようになってたんだ。大丈夫か、ソファで横になるか?」  そうだった。  桜子は学校から帰って、記憶が戻りかけて、倒れそうなところを遼太郎に抱き留められて……そうしたことを、桜子は一気に思い出した。何だか、不思議な夢を見ていたような気がした。  そして、思い出したと言えば…… 「覚えてる……あたし、記憶が……全部……」 「本当……か。思い出したんだな、今までのことを……?」  桜子は遼太郎から身を離して、その顔をじっと見つめた。 「それは良かった、けど、平気か? 頭が痛いとか、何ともないか……?」 自分も突然のことに感情が追いついていかないながら、遼太郎はまず桜子の体を心配し、オロオロとしている。  桜子は、そんな遼太郎のことを黙って見つめていたが…… 「よ……かったあ……」  不意に大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと涙を零した。 「桜子……?」 慌てる遼太郎の胸に、桜子が飛び込んで来た。これで桜子が記憶をなくしてから三度目、遼太郎は妹の体を両腕で受け止めた。  腕の中で桜子は、泣きながら溢れるような笑顔で遼太郎を見上げた。 「お、おい……」 「覚えてる……あたし、お兄ちゃんと仲良くなったこと、覚えてる……!」 桜子は、ぐいぐいと押すようにして遼太郎を抱き締めてくる。 「お兄ちゃん! あたし、記憶が戻っても、お兄ちゃんのこと大好きっ!」  嬉しそうに、そう叫んだ桜子の顔に、遼太郎は“妹”と“女の子”の二つの表情を見たような気がして、思いが込み上げ、そっと抱き返した。 「そうか……ありがとうな、桜子」 「うん……あたし、お兄ちゃんが大好き……ずっと大好き……」  遼太郎の胸に顔を押しつけ、幸せそうに微笑む桜子の頭の中で…… (消えてないじゃん、“あたし”の気持ち……) (あたしがいなくなっても、お兄ちゃんと、仲良くね――……)  誰かはわからないけど、よく知っている声が、そっと囁いた。9714ffe8-bc4d-4171-a2f7-6729419c8b54
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