239人が本棚に入れています
本棚に追加
48.日彦
「綴さん、お客様ですよ」
振り向いた綴の表情を見て、日彦の心臓はぎゅっと締め付けられた。事故当時、今から10年前の記憶のままの姿で、綴は微笑んでいた。
いつもきちんと整えていた髪は伸びて、幾分若く見えた。スーツ姿しか見たことがなかったからか、ざっくりと編まれたセーターを来ている姿は新鮮だった。
綴が記憶を失ったと聞かされてからは、会うことをずっと避けてきた。
どこで暮らしているのかは知らなかったが、庵に言えば連れて行ってくれるだろうと思っていた。
それが、どうしても出来なかった。
「・・・こんにちは」
綴は佑一郎の顔を見て、柔らかく微笑んだ。
その表情に全く影はない。どなたですか、と尋ねるでもなく、佑一郎とその後ろで様子を伺っている日彦を優しい瞳で見つめていた。
「急に申し訳ありません。お兄さんから言付かってきました」
日彦が驚いて佑一郎を見ると、彼はスーツの内側から淡いブルーの封筒を取り出し、車椅子に座る綴の前に差し出した。
綴は封筒を受け取り、佑一郎に微笑み返した。
日彦は視線だけで佑一郎に疑問をぶつけた。
「黙っていてすみません。貝瀬さん・・・庵さんが手紙を書いてくれたんです」
綴は受け取った封筒を開け、中に入っていた庵からの手紙を読んでいる。
事故当時は庵のことも覚えていなかったが、自分と同じ姿の身の回りの世話をしてくれる男が、双子の兄だということは納得している、と庵が話していた。
日彦は綴のあまりにも当時と変わらない様子に、目を離すことが出来なかった。
もしも「日彦くん」と、名前を呼ばれたら、泣き崩れてしまいそうだった。
手紙を読み終えた綴は、静かに顔を上げた。
何が書いてあるのかは解らない。が、いきなり現れた佑一郎と日彦が誰なのかを知ったように、綴は目を細めて二人を見つめた。
「僕に会いにきてくれたのですね」
ただそれだけの言葉が、日彦には苦しくもあり、ありがたくもあった。責められこそすれ、穏やかに迎えてもらえるなどと思っていなかった。
冷たい風が吹き付けて、看護師が綴の膝掛けがめくれないように手直しする。
佑一郎は日彦を見つめた。背中に触れ、彼の近くに、と無言で促される。
手紙には日彦とのいきさつが記されていたのかもしれない。そんな瞳で、綴は日彦を見ていた。
日彦はおずおずと綴の前に進み出た。
そして車椅子の前にひざまづき、綴と視線を合わせた。
綴は言った。
「こんな遠くまで、ありがとう」
「綴さん・・・」
名前を呼ぶだけで、日彦の心臓は張り裂けそうだった。罪の意識と、忘れられない思慕が日彦の中で混ざり合う。
日彦が複雑な思いで言葉を探していると、綴の手がゆっくり伸びてきた。
節くれ立った指はかつてのまま。
指先が頬に触れた。
「・・・悲しそうだ」
「え・・・っ・・・」
「何かつらいことがあったのですか」
「つ・・・づり・・・さん・・・?」
当時のことを覚えているわけではない。わかっているのに、かつて仁井田から助けてくれようとした綴の言葉と重なってしまう。
「僕で力になれることはありますか」
綴は言った。
あの時と寸分変わらない言葉を。
そう、この人は、こういう人だった。
悲しんでいる人間を放っておけない。
過去も、現在も関係なく、悲しげな日彦に対して手を差し伸べたいと思う綴の無条件の優しさ。
その優しさに、日彦は惹かれたのだ。
日彦の瞳からいつのまにか、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。
それを、指先で綴はぬぐい取った。
「ごめん・・・なさいっ・・・僕のせいで・・・っ・・・」
やっとの思いで絞り出した言葉。綴は、自分の膝の上で泣き崩れる日彦の髪を優しく撫でた。
看護師が口を押さえて視線を逸らした。
日彦は何度も何度も、ごめんなさい、と繰り返した。
と、日彦をなだめる綴の膝の上から、読みかけの本がどさりと落ちた。
コバルトブルーのレザーのブックカバー。
気づいた佑一郎が素早く拾い上げたが、冷たい風でパラパラとページがめくれた。
開いてすぐの見開き扉に書かれたものを見て、佑一郎は声を上げた。
「えっ……?」
その本のタイトルは、「メロウ」。
文庫本ではなく、最初に刷られた単行本だった。それもかなり年季が入っていた。掛けられたカバーも、かなり使い込まれたことが分かるくたびれ方をしている。
そして何よりも、その見開き扉の左側には「綴さんへ」と書かれていた。
下には、まだ書き慣れていない「立水ハル」のサイン。
「・・・これ・・・」
初版本だった。
当時、刷り上がって来たその本を、日彦は感謝の気持ちを込めて綴に贈った。受け取った綴は、日彦のサインを書いて欲しいと言った。
サインなんて考えてもいない、と言った日彦に綴は笑ってこう言った。
(今は、名前を書くだけでいいよ。でも考えておいたほうがいい。いずれ必ず必要になるからね)
たどたどしい自分の文字に言葉を無くした日彦の代わりに、「メロウ」を綴の手に返しながら佑一郎が尋ねた。
「この本が、好きなんですか」
綴は本を受け取り、サインが書かれた扉を開いて答えた。
「ええ。とても大切なものなんです。・・・どうしてなのか、覚えてはいないのですが」
綴は日彦が書いた、「綴さんへ」という文字をなぞりながら言った。
会話を聞いていた看護師が、あの、と横から佑一郎に声をかけた。
「事故に遭った時の持ち物のなかに、その本があって・・・免許証を見ても自分のことだとはわからなかったそうですが、この本のこのページを見て、これが自分の名前なんだと納得されたそうですよ」
看護師の説明を聞きながら、日彦は両手で顔を覆った。嗚咽が漏れるのを止められなかった。
綴は車椅子のハンドルを持った。
そしてゆっくりと腰を浮かせた。あわてて駆け寄った看護師の手を借りて綴は立ち上がり、不自由な左足を懸命に動かして日彦の前まで進んだ。
綴は日彦に尋ねた。
「あなたの・・・名前は?」
綴の問いかけに、涙を拭うこともせず日彦は顔を上げた。
もう一度、この人の前で名乗ることができるなんて、思いもよらなかった。
奇跡だと思った。
日彦は、頼りない声で答えた。
「はるひこ・・・です・・・」
綴は小さくうなづき、こう言った。
「・・・とても辛いことがあったんだね。僕でよければ、いつでも話をきくから、よかったらまたここへおいで・・・日彦くん」
日彦は、不安定に立っている綴の胸にそっと抱き寄せられた。
綴の中にある、小さな記憶の芽が顔を出したのかもしれなかった。もしそうでなかったとしたら、綴は日彦に「初めて」出会い、その危うさを目の当たりにして、ただ、手を伸ばしたいと思ったのかもしれない。
いずれにせよ、それは貝瀬 綴という人間の持つ、大きな愛情だった。
佑一郎は、二人から少し離れたところで空を見上げていた。
あたりには、子供のようにむせび泣く日彦の声だけが響いていた。
最初のコメントを投稿しよう!