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1.日彦
「これの下巻は、もう売れてしまいましたか」
古民家を利用した小さな古本屋で、ダークグレーのスーツの若いサラリーマンが、文庫本を一冊手に持って店主に尋ねた。
黒目がちな瞳、凛々しい眉。姿勢が良く、店主の顔をまっすぐ見つめる。
本を差し出した指先は、爪が短く切り揃えられていた。
店主のは読みかけの本を閉じて、顔を上げた。その本のタイトルを認めると、店主はほんの一瞬、瞬きをやめた。
レジの奥で丸いクッションの上で昼寝する黒猫が、ふああ、とあくびをして、もう一度眠りに落ちてゆく。
「…お待ちください」
店主の声はチェロの音色に似た、艶のあるテノール。
銀縁の眼鏡をはずし、店主はレジの奥にある入荷したばかりの積み上がった本の山から、彼の求める文庫本を探した。
しばらく探した後、店主は立ち上がり申し訳なさそうな顔でレジへ戻ってきた。
「今日の入荷の中にはないようです…申し訳ありません」
「そうですか。もし入荷したら教えていただきたいのですが」
「かしこまりました」
店主は伝票を開き、こちらにお名前と電話番号を、と差し出した。
サラリーマンはスーツの胸元から、上品な丸みのある黒いボディの万年筆を取り出した。
『依田佑一郎』。彼のサインは、少し女性的で、流れるような文字だった。
「依田様ですね。古本なのでいつになるかはお約束出来ませんが、入荷次第、お知らせいたします」
「ありがとうございます。…これ、買います」
依田は、上巻を指さした。はい、と店主は答え、文庫本を小さな袋に入れた。
「300円です」
差し出された500円玉と引き替えに、店主はぴかぴかの100円玉と、くすんだ100円玉をふたつ並べた。
依田は、小銭をポケットにしまうと、本の包みを大切そうに手に取った。
そして軽く会釈をして入り口に向かった。
「ありがとうございました」
店主は、カラン、というドアベルの音に重なるタイミングで声をかけた。
売れた本の名前は、「メロウ」。
日彦は膝の上で眠る黒猫の背を撫でながら、いつもの画像をタブレットに呼び出す。
今夜も再生回数が伸びている。いいねの数も着々と増えていた。
再生させると、いつもの指慣らしの音から始まり、今日の曲へと自然に繋がってゆく。
動画共有サイトに一日置きくらいにアップされる、ピアニストのチャンネル。
「Yuu」という名前だった。
自宅の部屋から配信している。
焦げ茶のアップライトピアノの鍵盤と指先しか映らないが、ピアニストの弾く曲、そしてその腕前が素晴らしく、音楽好きだけでなく幅広いユーザーに支持され、ブームとなっていた。
日彦はこれを流しながら、ウイスキーを飲むのが好きだった。
クラシックの日もあれば、ジャズの日もある。ピアノの上に楽譜はなく、ピアニストの気分で弾いているらしい。
曲の名前も作曲者も知らない。手の大きさからして男性と想像するが、もしかしたら女性なのかもしれない。日彦は勝手に「彼」だと思っている。
詳しい人間が聞けば、演奏されているのは有名な曲だったりするのかもしれないが、それは日彦にはどうでも良かった。
その長い骨ばった指が踊るように鍵盤を行き来し、時折跳ね上がったり、音が消えるまで一本の白鍵をはなさずに余韻を楽しんだり……そんなピアニストの指の動きを見ているのが好きだった。
日彦のプレイリストには「Yuu」の動画が増えてゆく。
コメント欄には、彼のファンのメッセージが溢れている。
次に弾いて欲しい曲を書き込む者もいる。実際、「Yuu」はすべて眼を通しているのか、弾けるものであればリクエストに応える。
6割がジャズ、2割がクラシック、のこりは流行のアニメの主題歌やポップスで、どれも「Yuu」のオリジナルアレンジが施されて、それはそれはお洒落になる。
どんな年代でも楽しめるチャンネルだった。
日彦は今まで、コメントを残したことはなかった。
が、ふと書き込みたい衝動に駆られ、キーボードを叩いた。
短い文面を打ち込み、送信するかどうか逡巡する。
たくさんのコメントのうちのひとつだ、目に留まるとは限らない、と自分に言い聞かせて日彦はそのコメントを書いた。
送信をクリックしたとき、昼寝から目覚めた猫がすとん、と膝から降りた。
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