2.佑一郎

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2.佑一郎

それは10年前に刊行された本だった。 立水(たてみず)ハルという作家は、20代半ばにしてベストセラーを飛ばしたのだが、その作品だけが有名で、そこから一冊も本を出していなかった。 佑一郎(ゆういちろう)は高校生の頃、父の書斎にあったその上下巻の小説をそっと持ち出して読んだことがあった。 ただの興味だった。 頭が固くて面白味のない父のビジネス書だらけの本棚に、淡い紫とブルーのグラデーションの装丁。 タイトルからしても、とうてい父が好む本ではない。 だからこそ、その本に興味を持った。 堅物の父が買って読むのだから、きっと面白いに違いない、と。 あれから10年が経って、社会人になった佑一郎は、会社の近くに小さな古本屋を見つけた。 もともと本が好きなわけではない。 だが、古本屋特有の閉鎖的な空間に憧れがあり、生まれて初めて足を運んだ。 古民家を改造したその古本屋は、外観よりも中は小綺麗で、ところどころに赤や緑のビロウドを張った丸い椅子が置いてあり、そこに座って小一時間、本を吟味する客もいた。 奥のレジ前に座る店主は「いらっしゃいませ」は言うものの、客には無関心だ。が、どれだけ長居しても嫌な顔ひとつせず、かつ支払いを済ませる客には穏やかに微笑む。 40手前くらいに見えるが、落ち着いた雰囲気はもっと年上にも感じる。 せっかくなのでそこに立ち寄った佑一郎は、あの父の本棚にあった本を探した。 内容ははっきりと覚えていなかった。 記憶にあるのは、若かった佑一郎でもすんなりと読める文体で書かれた、 エロティックな濡れ場。 作品そのものは女性向けなのか、恋愛を題材にしていた気がする。 10代の佑一郎は初めて、文章で自慰をする経験をした。 買ってきたばかりの上巻の表紙を、佑一郎は少し緊張しながらめくった。 蘇る記憶。 背中と下半身がぞくりと泡立つ。 物語は主人公の男性がひとり、部屋にいる場面から始まる。 主人公は雨に濡れて自宅の部屋に帰り着いたばかりだった。 交通事故で妻を亡くしたばかりの主人公は、喪服を脱ぎ、バスルームへ向かう。 シャワーを浴びながら男は号泣し、愛する者の名をかすれぎみに呼ぶ。 「・・・・え・・」 佑一郎の口が勝手に喋る。 主人公の男性が呼んだのは、亡き妻、暁子の名前ではなかった。 「この話・・・」 湯に打たれながら主人公の男性は、自分の逸物を扱きながら、一緒に事故に遭い、記憶を失った妻の兄の名前を何度も呼んでいた。 佑一郎はぞくぞくする感覚を押さえられず、膝と膝を擦り合わせた。 これ初めて読んだ学生の頃、まだ自分の性的指向に気づいていなかった。 だから、今、読み返すまで内容を忘れていたのかもしれない。 むしろ思い出さない方がいいと、記憶に蓋をしていたのかもしれなかった。 この物語は、亡き妻の暁子(あきこ)の兄、礼司(れいじ)への思慕で揺れる主人公の一年を描いたものだった。
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