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3.日彦
その日は雨だった。
カーテンを開けても日の光が入って来ない。
それでもカーテンと窓を開け放してから、日彦はキッチンへ向かった。
キッチンと言っても、1Kの部屋。数歩で到着する流し台で珈琲を淹れる。
砂糖は入れない。代わりに、暖めたミルクを少しだけ入れる。
一人用のドリップポットだけは大事に使っている。決まった大きめのカップになみなみと注ぎ、また数歩でたどり着くひとり掛けのソファに座る。
テレビは付けない。
代わりにノートパソコンを起動して、いつものチャンネルを開ける。
朝はクラシック。
雨が降るとショパン。それは、例のチャンネルのピアニストの受け売りだった。
コメント欄に載っていたのを見ただけだった。
ちょうど、「雨だれ」という曲があるらしい。有名な曲なのは聞いてすぐ分かったが、初めて名前を知ったのだった。
珈琲を楽しみながら、日彦は鍵盤の上を滑る指を見ていた。
白鍵と黒鍵をなめらかに移動する指は、やはり日彦の心の奥深くに触れてくる。
曲が終わるまで日彦は画面から目を逸らさずにいた。
画面が停止してやっと、自分が息を詰めていたことを知る。
ふう、と息を吐いて残りの珈琲を飲み干す。
カップをサイドテーブルに置いて、大きく伸びをした。
洗面所に立ち、顔を見ると、うっすらと髭が伸びている。
(おまえも髭が伸びるんだな)
灰色の記憶が蘇った。あれはもう何年前だろうか。自分で自分の頬を撫で上げると、ざらりと短い毛が手のひらに向かって存在を主張する。
男なのだから当たり前。
喉仏が目立つのも、声が低いのも、肩幅が広いのも。
不似合いなのは、妙にしっとりとした白い肌と、大きな瞳を縁取る長い睫。そして何も塗っていないのにほんのり紅い唇。
それが嫌で、どれほど苦しんだか。
学生の頃は、残酷な年頃の同級生たちの格好の餌になった。
成人してからは皮肉にも、その容姿が役立った。
しかし今となっては、欠点でも美点でもない。
全てを捨てて一度「死」んで、無味乾燥な生活を送る日彦には、ただの顔でしかない。
冷たい水で顔を洗い、薄い髭を剃り、髪に少しの整髪料をなじませれば朝の支度は事足りる。
日彦はノートパソコンと財布だけを持って、マンションを出た。
灰色の日常が、今日も始まる。
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