5.日彦

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5.日彦

「ノア、どこ?ごはんだよ」 猫が見つからず、日彦(はるひこ)は声を張り上げた。 古本屋の奥の間で寝ていたはずの黒猫のノアが、どこにもいない。 11時の開店まであと10分。 臆病で、滅多なことでは外に飛び出したりしない猫だったが、念のため店舗の中をくまなく探した。 ノアにつけてあるゴールドの首輪の鈴が、遠くでちりんと鳴った。 「ノア?」 入口に近い棚に近づくと、本と本の間のちょっとした隙間から黒い尻尾が優雅に揺れているのが見えた。 日彦はほっとして近づき、彼の喉を撫でた。 「だめだよ、本棚に登ったら・・・」 にゃあお、と甘えた声で鳴くと、ノアはすとんと本棚を飛び降りた。そして日彦に背を向け、早足で歩きだした。 「こら、どこいくの」 日彦が追いかけようとしたのとほとんど一緒に、古い木製のドアが薄く開いた。カラン、というベルの音にノアが反応して、ドアの隙間めがけて走り出す。 「ノア!だめだよ、戻って!」 店の前は、車通りの多い道路。ビル街の中の小さな古書店は場違いと言えば場違い。 車道に勢いよく飛び出せば、小さな猫などひとたまりもない。 しかし、開いたドアからすり抜けようとしたノアを、優しい腕が抱き留めた。 慣れた手つきで抱き上げ、目と目の間を撫でる。 黒に近いグレーのスーツを来たサラリーマンだった。他人に懐かないノアが、機嫌良く彼の腕に抱かれていた。 日彦は彼に見覚えがあった。 「す・・・すみません!」 あわてて駆け寄った日彦が手を伸ばすと、何事もなかったようにノアはサラリーマンの腕から日彦の肩に向かって飛び移った。 「可愛い子ですね」 「普段は店に降りたりしないんですが・・・ありがとうございます」 「いいえ。僕の方こそ開店前にドアを開けたりしてすみません」 一週間前に、文庫本の下巻が入荷したら教えてほしいと言ってきた珍しい客。 依田(よだ)佑一郎(ゆういちろう)。 流れるような文字を書く彼を、日彦は覚えていた。 ノアは気が済んだのか、日彦の肩で大あくびをしている。 「もう開けますので、よかったらどうぞ」 日彦の言葉に、佑一郎はわかりやすく嬉しそうに微笑んだ。 佑一郎に軽く会釈をして日彦はノアを奥へ連れて行った。専用の皿の前で降ろし、しゃがみ込むと言い聞かせるように日彦は言った。 「もうあんなことしちゃだめだよ。事故にあったらどうするの」 ノアは言葉の意味を理解したように、なぁお、と短く鳴いて、皿のキャットフードを食べ始めた。
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