231人が本棚に入れています
本棚に追加
/72ページ
49.佑一郎
「依田さん・・・」
綴の住むコテージを後にして、佑一郎の車に二人は乗り込んだ。
日彦は泣きはらした赤い目で、運転席の佑一郎を呼んだ。
「なんて・・・お礼を言えばいいか・・・」
佑一郎はキーを回し、エンジンをかけた。そして前を見たまま、横顔で佑一郎は答えた。車はまだ、動かない。
「・・・違うんです。僕は僕の、エゴで行動しているんです」
「エゴ・・・?」
「日彦さんが綴さんのことを乗り越えることは・・・僕にとっても、大きな意味があると思ったんです。いずれ僕だけを見てもらえるかもしれない、とどこかで思っていて・・・期待していなかったと言えば嘘になります。でも、それは間違いでした」
「え・・・?」
「綴さんに逢って・・・かなわないと思いました。記憶を失ってなお、あんな愛情を見せつけられるとは思いませんでした。・・・日彦さんにとっても、綴さんにとっても、決して切れない絆があるのだと分かりました。・・・だから」
前を見ていた佑一郎はゆっくりと助手席の日彦の方に振り向いた。
「待ちます。あなたがいつか、このことを乗り越えて、僕を思いだしてくれるのを」
「依田さん・・・」
「諦めはしません。僕の気持ちは変わらないので」
佑一郎はアクセルをゆっくりと踏み込んだ。車は静かに、元来た道を走り出す。
空港へ向かう道と、市街地へ向かう道。
その手前で、佑一郎は車を路肩に止めた。どちらも何も言わないまま、数分が過ぎた。
口火を切ったのは、日彦だった。
「・・・僕の患っている病気のことを・・・聞いていますよね」
日彦はきつく両手を結んでいた。佑一郎はその手を見下ろして話す日彦の横顔を見ていた。
ええ、と佑一郎が答えると、日彦の両手はさらにきつく互いの指が食い込まんばかりに結ばれた。
「仁井田岳という作家に、若い頃、暴行されたことが原因でした。何年経ってもその経験が僕を縛って・・・気がつけば、3日に一度は誰かと性交渉しなくてはならない身体になりました」
佑一郎は、うなづくこともせず、ただ日彦の横顔だけを見ていた。
林田や庵から聞いた話を、日彦本人が話すのは初めてのことだった。
「庵は、綴さんの事故が原因だと言っていましたが、僕にはそれが受け入れられなくて・・・僕を辱めた仁井田のせいにしなければ、生きていけなかったんです」
古書店で見た薬の袋。
その中には、白い錠剤や粉薬が何種類も入っていた。
何年もの間、あの量の薬を飲み続けるのはどれほど辛いことか。日彦の痩せ型の体型や抜けるような白い肌は、そんなことも関係しているのだろうか。
「綴さんの事故は、「メロウ」の出版が決まった矢先でした。毎日僕のために奔走してくれている最中に・・・バイクにひかれたんです」
声が小刻みに震えていた。
佑一郎は、無理に話さなくていいと喉まで出掛かった。しかし日彦は息をひとつ吸って、続けて言った。
「綴さんが苦しんでいるのに、僕の病気の原因だなんてそんな理不尽で申し訳ないこと、僕には耐えられなかった。でも・・・」
日彦は佑一郎と向き合った。
もう涙はなく、その瞳には決意めいたものが見えた。
「依田さんのおかげです。ここに連れてきてくれなかったら、向き合えないまま一生を終えたかもしれません」
「日彦さん・・・」
「どこかで分かっていました。僕が感じている罪悪感は、一本、道をそれてしまっていたんだってことを・・・それに改めて気づくことが出来ました」
日彦が、やっと笑った。
心の底からの笑顔をみたのは、もしかすると初めてかもしれない、と祐一郎は思った。
背もたれに寄りかかり車の天井を見上げ、佑一郎はあえて明るい声で言った。
「僕はいいとこ取りなんですよ。貝瀬さんの力がなければ、行動を起こすことは出来なかったと思います」
「庵は・・・依田さんに、何て・・・?」
二人は一瞬視線を合わせた。佑一郎は答えた。
「・・・覚悟があるのかと」
「覚悟?」
「日彦さんの傷ごと、受け止める覚悟があるのかと、聞かれました」
庵の言葉が佑一郎の頭の中でリフレインする。同時に、佑一郎の中で揺らぐことのない日彦への気持ちに再び火がついた。
「・・・あなたを愛してる」
佑一郎はそう言って、助手席側に手を伸ばした。
それに答えるように、日彦も身を乗り出す。
それはゆっくりと、初めてガラス越しに唇を合わせた時のように、二人はキスをした。
最初のコメントを投稿しよう!