5.日彦

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カリカリ、とノアが租借し始めたのを見て、日彦(はるひこ)はレジに戻った。 佑一郎(ゆういちろう)が本棚を物色しているのを横目に、入荷したばかりの本をチェックする。 頼まれていた「メロウ」の下巻は今日も入っていない。 楽しげに棚に並ぶ文庫本をめくる佑一郎の背中に向かって、日彦は声を張った。 「依田(よだ)さん」 佑一郎は弾けるように振り向き、日彦と目を合わせた。 「僕の名前・・・」 「この間、「メロウ」の下巻を注文してくださいましたよね」 「あっ、そうです、はい」 佑一郎は頭をかきながら、早足でレジに近づいた。日彦はあわてて、すみませんと謝った。 「違うんです、すみません。まだ入荷してないんです」 「あ・・・」 「それをお伝えしようと・・・」 「そうだったんですね、僕のほうこそ早とちってすみません。・・あの、」 佑一郎は、少し悩んでから言った。 「はい?」 「この間の本の作家さんの、他の作品とか、ご存知ないですか」 「・・・え?」 日彦の足下に、食事をすませたノアがすり寄ってきた。素早く彼女を抱き上げ、日彦は佑一郎の質問に答えた。 「立水(たてみず)ハルの、他の作品ですか」 「はい。こういう・・・古本扱うところの店主さんなら、詳しいかと思って・・・・」 「・・・少しお待ちください」 ノアを肩に乗せたまま、日彦は山積みになった在庫本に手を伸ばした。 が、ぴたりと止まり、引き戸を開けてバックヤードに入った。 パソコンやプリンター、伝票などを無造作に置いてある欅の一枚板のテーブルの下から、ほこりのかかった段ボール箱を引っ張り出す。 開けて、一番上に積まれた文庫本を手に取ると、日彦は店に戻った。 「うちにあるのはこれだけですが・・・」 そういって日彦がレジの前に置いたのは、「メロウ」で有名になる前に出版された、立水ハルの処女作。 「こ・・・これ、ネットでも探せなかったやつです!」 佑一郎は笑顔でその文庫本を手に取った。表紙と裏表紙を何度もひっくり返している。 ぱらぱらとページをめくるうちに、佑一郎は何かに気づいたように顔を上げた。 「これ・・・新品・・・ですよね」 「ええ。・・・元の持ち主はほとんど読まなかったんでしょうね」 折り目すらついていない文庫本。 佑一郎はぽかんと口を開け、何度かぱちくりと瞬きをし、日彦の眼鏡の奥をじっと見た。 あまりにまじまじと見つめる佑一郎に、日彦は小首を傾げた。 あっ、と佑一郎は視線の理由を説明した。 「すみません・・・読みたい本を買って、ほとんど読まないなんてことがあるのかと思って・・・」 「・・・思っていたのと違ったとか、読んでみたらそう面白くなかったとか・・・そういうことなんじゃないでしょうか。多分」 「・・・それじゃあ、せっかく書いた作家さんが可哀想だ」 さらりと言った佑一郎は、再びページをぱらぱらとめくる。 「本がお好きなんですね」 日彦は半ば無意識に尋ねていた。 しかし、ぱっと顔を上げると佑一郎は恥ずかしそうに答えた。 「いえ、本は・・・あんまり読まないんです」 「え?」 いよいよ訳がわからないと、日彦はいぶかしげな視線を佑一郎を見た。 「活字はすぐ眠くなっちゃって・・・ただ、この人の書くものだけは読めるんです」 「・・・そうなんですか」 立水ハルは、若いサラリーマンが好んで読むジャンルの作家ではない。どちらかというと女性向けのものが多い。 佑一郎は、その文庫本のために財布から500円玉を出した。 子供がなけなしの小遣いで駄菓子を買いに来たみたいに嬉しそうな顔をしていた。 「ありがとうございました」 振り返りながら会釈をして、佑一郎は店を出て行った。 いつのまにかレジの上で昼寝を始めたノアの背中を撫で、日彦は独り言を言った。 「・・・珍しい人だね」 ノアはしっぽだけを揺らして、日彦に返事をした。
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