238人が本棚に入れています
本棚に追加
1時間15分のミニコンサート。
途中の短いトークコーナーでは、緊張のあまり噛んで笑いを取った。
クラシックのアレンジ、有名なジャズナンバー、Jポップのメドレーなどを組み込んで、コンサートは順調に進んだ。
最後の曲になりました、とピアノに設置されたマイクに向かって言うと、拍手が沸き起こる。
マイクの向きを自分の方に向け、拍手が鳴り止むのを待って、佑一郎は言った。
「今日、ここに足を運んでいただいたみなさんに、心から感謝いたします。・・・ここで少し、僕のことをお話しさせてください」
佑一郎は、2年前までサラリーマンだったこと、一度はピアニストの夢を諦めてしまったこと、しかしあるきっかけでもう一度目指そうと思ったことなどを話した。
「僕は、大人になっても乗り越えられないものがあると思っていました。でも、僕のとても大切なひとが、とてつもない大きな壁を乗り越える姿を目の当たりにして、考えが変わりました」
静まりかえる客席。
日彦が来ているのかどうかは分からない。取材やテレビ出演で忙しいのをわかっていて、手紙も添えずにチケットを送った。
「最後の曲は「メロウ」といいます。大切なひとを想って作った曲です。・・・聞いてください」
佑一郎は鍵盤にまっすぐ向き直った。
いつかの夢で見た光景。満員の客席、頭上から降り注ぐスポットライト、漆黒に輝くグランドピアノ。
日彦と最後に肌を合わせた夜、ふと浮かんだメロディ。
頭ではなく、指が覚えている。
最初の一音が鳴れば、あとは佑一郎の世界になった。
メロディに乗せて、始めて日彦に逢った日のことが脳裏に浮かんだ。
古書店のレジに座っていた日彦は銀縁の眼鏡をかけた、神経質そうな青年だった。
佑一郎は話しかける少し前から、店を訪れる度に彼の物静かな横顔を見ていた。客に話しかけられれば柔らかく微笑むのに、ひとりになると寂しそうに目を伏せる。黒猫の背を撫でる手首が、あまりにも細くて驚いた。
彼の声は艶のある、チェロのような音色だった。
その声を、古書店とはかけ離れたところで聞いたとき、佑一郎の心は邪な思いに支配された。
近づきたいと思っても、印象の違いすぎる日彦の姿に二の足を踏んだ。
それから名前を知って、彼の患っている病を知った。
彼をとりまく人々の愛情や、過去の傷を知った。
心と身体が繋がった時の、まろやかで溶けてしまいそうな感覚。白く滑らかな肌と、日彦の吐息まじりの声は甘美で、佑一郎は彼の虜になった。
心から日彦を愛している。
それまでの道のりが長く辛かったことなど、どうでもいいぐらいに。
二人を繋げた「メロウ」。
その結末は、主人公の知宏が眠りに落ちるシーンで終わっている。
記憶を無くした妻の兄、令司への想いを消すことが出来ず、妻との別れを選ぶ知宏。
とたんに仕事もうまくいかなくなり、自棄になって同じ性的指向を持つ男と関係を持つが、そのたった一度の夜でHIVウイルスに感染してしまう。
知宏は生きる気力を無くす。検査から戻った自宅のベッドの上で、令司との楽しかったわずかな思い出に浸る。
涙が一筋頬を伝い、知宏は自分の意志で目を閉じる。
ベッドサイドに落ちた大量の白い錠剤の描写が服毒自殺を匂わせるが、知宏の生死は明らかになることなく物語は終わる。
日彦は、綴への想いを眠らせたのだ。
二度と目覚めることがないよう、自分の描く世界の中に。
その鍵を、再び開けることを決意した日彦。それは、今度こそ愛する者と生きていくために。
日彦との短く濃厚で円熟した日々は、ひとつひとつの音符となって今、佑一郎の指が奏でる美しい曲に姿を変えていった。
最後の一音が完全に消えて数秒。
ホールは大きな拍手に包まれた。観客のスタンディングオベーションに、佑一郎は不思議な既視感を覚えた。
足下から上がって来るぞくぞくとした感覚にふらつきながら立ち上がり、佑一郎は身体を90度に曲げて最高の礼をした。
全身に観客の賛辞の視線を浴びながら、舞台を後にする。
舞台袖には、コンサートを企画した瞬と、もう一人、男性が立っていた。
淡いベージュのスーツに、焦げ茶色のワイシャツ。
手に白い百合の花束を持ち、背中を伸ばして立っている。まだ舞台の上を歩いているというのに、佑一郎は心臓が爆音で鳴り始めて、うっかり立ち止まってしまいそうになった。
彼の隣で、瞬がにやにやしている。多分、瞬は知っていたのだろう。
駆け足になりそうなのを必死で抑えて、佑一郎は舞台袖に佇む彼の前まで歩いた。たいした距離でもないのに、何故か息が切れてしまう。
久しぶりに逢う彼は、もう悲しげな空気を纏ってはいなかった。
柔らかい微笑みを浮かべた日彦は、白い百合の花束を差し出して、こう言った。
「おめでとう・・・佑」
佑一郎は日彦を抱き寄せた。甘い髪の香りは、あの時と同じ。
百合の花束が床に落ちた。
鳴り止まない拍手とアンコールを聞きながら、ふたりはゆっくりと唇を重ねた。
完
最初のコメントを投稿しよう!