もうひとつの境界線の先

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もうひとつの境界線の先

記憶にない頃の自分を知られている人と話すのはどうにも調子が狂う。 悠一郎さんに、木田さん。 彼女もこんな風に複雑な思いでいるのだろうか。 師走も中旬。泊まり込むために帰省した初日。 「おや坊っちゃん!これからしばらく忙しい日が続きますね」 「あら坊っちゃん、おかえりなさいませ」 「その呼び方はいい加減にやめてもらえませんかね…」 門をくぐり石畳を歩いていると、無駄に広い敷地の植木に年内最終の手入れを施す体格のいい薄着の庭師。今は家回りを清掃しているけど家事全般こなしてくれる、母と同い年ぐらいの割烹着姿のお手伝いさん。 自分が生まれた時には既に勤めてくれているからか、ありがたいことに容姿に対しても慣れていて、変な視線を送ってくる事もなくずっと普通に接してくれていた。 それでも『露利』という家に対して勝手にいじけていた期間は長く、彼女と出会うまではずっとそっけない…どころじゃない、視線だけ返して無視するという態度だった。申し訳ない。 去年。同じように出迎えてくれたふたりに『お疲れさまです』と声を掛けたら、涙ぐまれるほど喜ばれた。 「そんな事言われましても…ねぇ?」 「そうですよ、坊っちゃんはいつまで経っても私達にとっては坊っちゃんですから」 そうだ。この家からは逃げられない。 分かっていたけれど、それを枷だと感じていた頃とは違う。もう逃げないと決めた。まだ了承してもらっていないから勝手な考えだけど…ふたりで、背負ってもらう。ふたりならきっと大丈夫だと思えるから。何より俺が、頑張れる。 「ありがとう」 今年は涙ぐむどころか『坊っちゃんは姿が麗しいだけではなく、優しい方だと信じておりました…!』とかなんとか言いながら泣き崩れられた。時代劇じゃないんだからやめてくれ。 彼女を連れて帰ってきた時には失神してしまわないか今から心配だ。 なんとかふたりを宥め、やっと平屋の本宅に足を踏み入れた。普通に生活するには邪魔でしかない屏風やら置物やら多数あるくせに、広すぎてそれらがまったく邪魔になっていない。 見慣れた家の様子は、一般とはかけ離れている。所謂昔ながらの木の梁がめぐる日本家屋。玄関もどこかの旅館かとまがうぐらいの無駄な広さ。正面と右側に伸びる廊下はそれぞれ茶道関係の部屋が続く。左側が住居側。少し軋みの音がする床を踏むと、ああ帰って来たんだなと実感した。
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