もうひとつの境界線の先

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自室に荷物を置いた後、自分の家なのに未だに踏んだ事のない土地の方が多い敷地の端にある、兄の家を訪れた。 茶道の家だからと言ってどこもかしこも和風なわけではない。本宅から言えば比較的新しく建てられた家はフローリングだし一般的な一戸建てと変わらない。出迎えてくれた兄の普段着も着物じゃないシンプルな洋装だし、家の立地と職業以外は至って普通の生活を送っている。 「待ってて。何か飲み物を」 「兄貴は動かなくていい!俺がやる!」 嬉しそうにリビングからキッチンに向かいかけた兄を必死に止めるのには理由がある。 この人がキッチンに入って何かやらせた場合、竜巻でも通ったのかと錯覚させるほどその場が荒れる。 無意味に調理器具を引っ張り出し、 『これじゃなかった』ポイっ 『こっちかな?違うなぁ』ポイポイっ 『あれー?』ポイポイポイ… 見当違いの棚を漁りまくるし、不必要な物を掴んでは床に放り投げていく。 本人も分かっているくせにぐちゃぐちゃにするのが楽しいらしく、キッチンに足を踏み入れられる滅多にないチャンスを楽しみたかったみたいだ。普段は奥さんにキツく止められている。 キッチン程ではないけれどクローゼットなんかも荒らしてしまう、整理整頓とは仲良くなれない兄だ。がさつ、に近いかもしれないけれど、それでも茶道の事になると人が変わり、驚くほど繊細で洗練された動きを見せるのだから血というのは恐ろしい。 なんとか荒らし魔をリビングの椅子に戻し日当たりのいい明るいキッチンに入ると、目のつく場所にはコーヒーの入ったカップがふたつ。小さなメモに、不在の兄貴の奥さんの文字。 『直接ご挨拶出来ず残念です。貴雪さんがキッチンに入る事さえ阻止していただければ、何でも好きにお使いください。またお会いする機会を楽しみにしております』 随分しっかりした年下の義姉だ。 「そういえばね、まなと《・・・》が出掛ける前に何か準備してくれてた気がするよー」 「コーヒーがあった。兄貴はキッチンに入るなよ、温められなくなる」 兄貴の奥さん、まなとさんのおかげでこの家は綺麗に保たれている。 温まったカップを手に戻ると、いい年した男はつまらなそうに口を尖らせていた。気持ち悪い。
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