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「上手になったね」
剥き出しの耳に意識を奪われていたから、呟かれた言葉に反応するのが遅れてしまった。
同棲を始めて半年。料理の腕はかなり上達した。それよりも嬉しいのは調理中も、今のような片付け中も側にいられる事だった。
水道を使う彼女の髪型は、サイドを編み込んで耳が出ているスタイルに仕上げていた。1日経っても崩れていない。
料理を教える変わりにヘアアレンジを教えて欲しいと、珍しく提案があった時は喜んで引き受けた。
ただ髪型が完成していく時間をぼうっと受け入れている日もあればコツを聞かれたり実践する日もある、バラつきのある反応だったけれど、腕時計と共に、離れても彼女の側に自分がいられるような気がして毎朝の楽しみになっていた。
「ご指導の賜物です」
小さく笑った、揃いのエプロンをつけている彼女は変わらず…本当に少しずつ改善しているものの、苦しんでいる。
ほんの少しだけ捲られた袖から、前ほど深くはない新しい引っ掻き傷の頭がのぞく。見つけた視線に気がついたようだ。
「さっきつい、ちょっとだけ…ごめん」
「謝らなくていい」
「…うん」
訳も分からず距離を置かれていた期間があったから、こうしていられるだけで幸せだった。
「颯と、」
ソファに座るとスカートを握りしめ、あの日以来初めて颯の名前が響いた。
「連絡取ってる?私、避けられてて」
撮影の仕事には関わらず、ずっと社内にいるから以前より顔を合わせるタイミングは多いはずだ。避ける理由も想像つくけど。
「会いたいって、伝えて欲しい」
『会いたい』
それは一緒に暮らし始める事で、それまでより格段に思う事も伝える事も…機会が減ってしまった感情。
特に塞ぎ込んでいる彼女の、仕事以外の時間は全て知っておきながらなんと欲張りにも、颯に向けられる気持ちに妬いていた。そんなにハッキリと自分の考えを言ってくれる事は、まだまだ少なかったからだ。
「そうか。連絡してみるよ」
「絶対だよ?」
そんなに念を押してくる事も、なかったのに。
『多香子の事避けてるだろ』
颯とは月に1度程の頻度で簡単な連絡を取っていただけだった。リハビリの後短い眠りについた彼女の寝息を聞きながら、明るいベッドの横で久しぶりにメッセージを送った。
返事はすぐに来た。
『避けてるよ。僕の顔見て思い出す事もあるかもしれないし…怖がるんでしょ?男性』
返す前に続けてメッセージを受信。
『気になってないわけじゃないからね。トイレでもお風呂でもベッドの中でも考えてるよ』
『それは考えすぎだ』
『それで?』
『本人が、お前に会いたいって』
テンポ良く続いたやりとりが、そこでしばらく止まる。
『…大丈夫かな?』
『お前を怖がることはない』
『なんで言い切れるわけ?』
『特徴が決まってる』
『どんな?』
『俺よりも背が高い男』
タレ目でも金髪でも、髪質が癖毛でもストレートでも大丈夫だった。おそらく、暗くてあの時の記憶としては強く残っていない。残ったのは身長、というより自分に覆い被さる人影の長さ、だろう。
颯の身長は言わずもがな。該当しない。
『まいったな』
『何が?』
『僕のそんな所にまで幸せを感じさせてくれちゃうのか』
『背が伸びなくて良かった事がひとつ出来たな』
『顔の高さが一緒で…体を曲げなくてもキスが出来る所、こんな状況でも会える所』
『はあ?』
『背が伸びなくて良かった所。ふたつだよ』
『ふざけんな』
間違ってもキスすんなよ!
『ずっと考えてるんだけど』
『低身長?』
『苛立ったマシンガントークを聞かせられないのが残念だ』
こっちは聞く事がなくてほっとしたよ。
『こんな事になっちゃったし、兄である僕が責任持って面倒見た方がいいんじゃないかって。養子として那古になってもらおうかな』
『なった所ですぐ露利になる』
『そこは別姓で』
『うちの家の感じで出来ると思ってんのか』
『無理かー』
それにクソ餓鬼と一緒になんか出来るか、馬鹿タレ目。
『とにかく普段通りに接してやって』
『分かった』
『俺も一緒にいられる日に会う事になる。3人だからって触るなよ。さすがにそれはどうなるか分からない』
『しない。…出来ないよ』
那古家を訪ねた以来の親友との再会を楽しみに思いつつ、当日はもっと妬く事になるんだろうなと…ずっと繋がっていた寝息の主の小さな手を撫でた。
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