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いつ頃の事だったかな。
怜さんに、図書館の中庭で言った言葉だ。
どうしてそんな風に考えられたんだっけ。
『お前は悪くない』
じっと、私を待ってくれる人の声。
木田さんの言ってた通り、本当にきっかけなんて一言だけ。でも少しだけ触れ、話を聞いてくれて、上着も貸してくれた。いい匂いだった。
私のせいでと、責めていた気持ちに…貰った言葉をこの状況の中都合良く脳内に引っ張り出してくると、沈殿していた泥のような気持ちを掬い上げて捨てた。撒き散っていた物もかき集めて燃やした。
私は今、あの時のように…ちゃんと考えられているだろうか。これからの自分の事、ふたりの事。
きっと紅大が、こんな私をなんとかしてくれると思ってなかっただろうか。短い呪文を言わせ続け、綺麗な体になる魔法をかけてくれるのをただただ待っていなかった?結婚だって、本当はしたいくせに背負わせる勇気もなく彼からの求婚をただ待つ選択をして。
起こってしまった事をなかった事にはもうできない。なら、これからどうするのか…ほんの少し先の未来から、ちょっとずつ考えていかなきゃ。彼がずっとそうして側に居てくれたように。
帰らないといけない。
待っててくれている人がいる。
それは扉の向こう、一時の安らぎをくれる…私の言うお願いを何でも叶えてくれる木田さんじゃない。
体を起こす。涙を拭いたついでに視界に入った手首の跡を、気合いを入れるために軽く叩く。しっかりしなさいと叱咤激励。
改めて室内を、まだ荒い息で見渡してみた。
窓はなく暗い。合わせたような暗い色の這い出てきたベッド。壁紙にも染み込んでいるような煙草の匂い。
そんな中、部屋の隅にぼんやりしたオレンジ色の光を見つける。その小さな光は、初めて彼の家に泊まった時のものと似ていた。緊張しながら浴室から出て暗い部屋の先、部屋を仕切るカーテンの向こう。輪郭がぼんわりと布地でぼかされていて道しるべみたいで。不安もあったのに、気がつけば導かれていたあの光。
まだ力が入りづらい体に鞭打ち、四つ這いで道しるべの…私の鞄に近づく。中を覗き込むようにしてみると、そこには。
そうだよ。ずっとずっと…こんな大切な物を忘れちゃって、ほんと、鈍感な私だ。
背後でゆっくり扉の開く音。
開いた分だけ明るさがやってくる。
慌ててベッドに戻って布団をかぶり、籠城するように伏せて丸まった。
「何してる」
「…何も」
さっき話していたのとは違う、苛立った声だった。ほぼ呼んでいた名前。待っても続かないから入ってきたのか。
布団はいとも簡単に剥がされ放り捨てられ、ほぼ裸の体が晒される。
「あっ?!」
「どうして様子が変わった」
「変わってない」
「嘘だ」
覆うようにのし掛かられより濃くなる煙草の匂いが、密着する体と声と共に肌を撫でてくる。
「体の傷。自分でしてるんですか」
「そうだよ」
「あんなクソ餓鬼に汚くされて」
『汚くない』
頭の中の言葉に励まされる。今はすがれる物だってみつけた。
「短気なくせに自分で期限を決めて…彼に嫉妬してるだけでしょ?我慢できなくなったんでしょ?!まだ期限前なのにこんなことしてさぁ!忠告なんて木田さんが彼に手を出していい理由が欲しかっただけじゃない!あなた自身の責任を、押し付けないで!本当、後悔するぐらいならとっととモノにしておけばよかったんだよ!」
「何持ってる?見せろ」
「嫌!」
力で叶うはずもなくこじ開けられた手には、紅い輪のついた、家の鍵。
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