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「鍵…?」
「私達の家の鍵だよ」
もちろんスマホも奪われていた鞄の中、光って見えたのはキーケース。同棲を始めてもまだ使えた事はないけれど、念の為にずっと入っていた。
『おかえりなさい!』と出迎えた、幸せな未来の姿を想像させる扉の鍵。同棲しようと言ってくれた時にもちゃんと伝えてくれていたのに、ぼんやりしていた私ときたら。
簡単に奪い取られ、放られた鍵が床を滑る音。離れてしまったけど大丈夫。存在はそこにある、心の中にもある。
「ふたりの家に、帰して」
「帰しません」
「帰る!」
「本当、中身は茅香子さんに似てませんね」
「どうしてここでお母さんが出てくるの?木田さんは…ずっとお父さんに似てるとしか、言ってなかった」
「私にしておきませんか」
「しない!彼以外は、受け入れられない!彼がいいの!紅大がいいの!」
「では悠一郎さんを、裏切ります」
「話を聞いて!ほんとクソ野郎だね!!」
肩紐に冷たい指がかかり、二の腕に落ちる。
「背中まで汚くされて。ひどい紫の痣」
軽く押された肩甲骨。
その場所の記憶を無理矢理辿らされる。
無理な体制で2人分の体重がそこから床に落ち、打ち付けた所はおそらく痣になっていただろう。まだ残っていたのか。当時と似た状況の今、息があがりかけると同時に思い出したのはもうひとつの記憶。
私が眠りに落ちる直前に必ずキスをしてくれる場所だ。触れてくれているだけなのに、ごっそりと体力を奪われるリハビリの為にいつも朦朧としなが受け入れていた、キスというよりはゆっくり吸われる感覚。そこが今の場所。
ずっとずっと、知らない間に上書きしてくれていたんだ。そのまま眠ってしまって、どうしてそんなところにキスをするか聞く事なんて綺麗さっぱり忘れていたし、ぼんやりした中、そんな事を気に留める余裕も捨てていた。
忘れられるのが目的のタイミングだったのかもしれない。お風呂場の鏡は見えないようにしてくれているし、普段背中なんて自分では滅多に見る機会もない。
私が思い出さないように?
颯と名前で呼びあうようになっていたのも、怖がらないように?
ずっと、近すぎる所にあった。
安心を感じられる物。
彼の優しさに包まれる毎日をすっきり目覚めたような感覚の中改めて実感し、溢れ、泣き出しそうだ。
本当にズルい。花粉を着けたり、リボンの変わりにこんな紅を…何も知らない私に刻んでおいたり!
「汚くない!」
「汚い」
「紅大が汚くないって思ってくれているなら、それでいい!」
『汚くない』
彼がどれだけその言葉をかけてくれたのか、知らないくせに。その時の表情が、告白をしてくれた時と同じくらい真剣な顔だなんて、知らないくせに!
「もしかして私の外見に…『お母さん』に執着してるの?なら勝手に嫉妬して、クソ野郎なのはあなたの勝手です!辛い事もあったけど、彼と出会った事は…付き合った事は絶対、絶対に後悔しない!させない!」
会いに行かなくちゃ。
あなたがいれば大丈夫だよって伝えたい。
すぐに。
「ふっきれた鈍感、なめないでよ!」
叫ぶと同時、部屋の向こうからものすごい破壊音が響き渡った。
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