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出産の時も、悠一郎さんに連絡が入ったのは既に産まれた後だった。兆候を感じるとひとりで病院まで歩き、ついてすぐ叫び声ひとつあげずするりと産んだそうだ。
「声を出さない方が早く終わるかなと思って」
助産師にそう言い放ったらしい。
悠一郎さんは茅香子さんに触れる事を自分の前でも、幼稚園に通い始めた娘の前でも隠さなかった。彼女が料理中に、彼のちょっかいのせいでかなり血が出たときもその場で見ていた。
それ以降、悠一郎さんがキッチンに近寄るだけで泣き叫ぶようになった娘に『治してあげるのも愛情か』と言って茅香子さんがした事は…もう1度同じ機会を作って血を見せる、という幼子には刺激の強すぎる行動だった。
もっと深い心の傷が出来てしまったのではと心配していた自分に対して、人生2度目となった失神中の娘を眺めながら母親は『ショック療法はちょっと早かったのね』と驚いていた。
「悠一郎」
「ん…?」
「多香子をベッドに寝かせてくるから我慢して」
そろそろ帰ろうかと、ソファで寄り添っていた親子3人の後ろで支度を整えていた時だ。
彼の声は囁きのように甘く、対照的に彼女は冷静な声だった。背もたれでほぼ隠れており、自分から見えていたのは茅香子さんの肩から上と、そこに重なる明るい髪色が少し。
遅い時間だったから多香子さんは眠っているのか声もしない。
「もう寝てる。…いいだろ」
「娘に膝を貸しているのに、起こさずにどう抱いてくれるのか見物ね」
答えはなく静かになった所で、帰る旨一声かけた。
「陽紫。気をつけてね」
同じタイミングで、眠る娘を抱き上げ寝室に運ぼうとした彼女の顔は確かに母親だったのに…不満そうに天井を眺めていた悠一郎さんに覆い被さるようにキスを送り『あとで』と囁いた表情は年上の女性の色気で溢れかえっていた。
力の入っていない娘を片腕で抱えながら、彼の伸びていた喉元を獣を手なずけるようにくすぐる指の魅惑に…帰ろうとしていた事を一瞬忘れた。悠一郎さんも欲に濡れる目を細めてされるがまま、受け入れていた。
我に返った時、部屋には彼と自分だけ。
まだ自分が10代も後半の頃。目の前で繰り広げられた大人の世界に、知らぬ間に手に汗をかいていた日もあった。
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