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「なにも隣に住まなくても良くない?」
「悠さんの近くにいたいので」
隣の部屋が空くと同時に入居を申し出た。悠一郎さんが親から譲り受けたマンションだったから、すんなり入る事が出来た。
茅香子さんは相変わらず、頻繁ではないにしろ突然足が動きづらくなるという小さな爆弾を抱えていたが、良く出歩く。
その時も偶然、よたよたと申し訳ない程度の歩幅で前に進んでいたのを見つけ、自宅まで松葉杖代わりに腕を貸す…恋人同士のようにも見える姿で歩いていた。大人になり彼女ぐらいなら余裕で抱えられるようになっていたが、歩きたいと申し出があった。支えとして力をかけられる瞬間が嬉しく、不定期に訪れるその機会を楽しみにしていた。彼女の事を考えるとあまり良い機会ではないはずなのに。
「そろそろ、散歩するのは自分か悠さんがいる時だけにしませんか」
「ひとりで自由に外に出られる事が未だに嬉しくて。それに助けてくれる時の悠一郎の怒ってる顔、最高よ?もちろん陽紫には感謝しかないからそんな顔しないで」
自分も面白がられているのかという少しの苛立ちと、悠一郎さんへ向かう気持ちにやりきれない思いで、風に靡く髪を見ていた。
どれだけ近づいても、何も匂いがしない人だった。空気なのだから、それも当然か。
「茅香子さんは匂いが何もしませんね」
「陽紫は煙草の匂いしかしないわ」
咎められたわけではないけれどすぐに謝ると、嫌なわけじゃないからと笑われてしまう。すぐ隣で、優しく揺れる空気。
「特別な人からは、特別ないい匂いがするのよ。ある時から突然こう…ふわっと、ね」
「悠さんはどんな匂いですか」
「早朝の山の匂い」
「いい匂い…ですよね?」
「もちろん好きな匂い。陽紫が私から何も匂いを感じないのならそれは…きっとあなたの思っている感情とは、違うのよ」
気づかれている。
それでも尚、変わらず接してくれていた。
「彼のどんな所を尊敬しているの?」
「迷いなく導いてくれる所ですかね」
「悠一郎も慕ってくる子達を支えにしてた。あれで結構…寂しがりだから。あなたがバイクの後ろに乗ってくれたの、かなり嬉しかったみたいよ?」
寂しがり?彼が?自分の中では繋がらない表現だ。
「『悠一郎』って、呼ぶの長くないですか」
チームにいた時から『悠さん』と呼ばれていたから、そう倣っていた。でも茅香子さんは違ったのだ。
「少しでも長く、彼の存在を感じていたくて」
『悠』だけで呼ぶのと3倍もちがうのよ?とわざわざ数字を指で作ってまで真剣に語っていた。そこから自分も彼を『悠一郎さん』と呼ぶようにした。
「もうひとついいですか」
「いくらでも」
「どうして彼だったんですか?」
幼い多香子さんには、はぐらかすような答えしかしていなかった質問。大人の自分になら本心を教えてくれるだろうか。
男性を毛嫌いしてもおかしくない程の酷い暴力行為の跡は、その時はもう消えていたし特に後遺症といえば足くらい。お願いを叶えてくれたとはいえ、パートナーを選ばないという選択もあっただろう。
「可愛かったの」
自分に答えたようで、そうではない。
恥ずかしさを堪えてなのか伏し目がちに、そこにはいなかった悠一郎さんに向けられた、交際を申し込む時のような感情に重みのある言葉。質問しておきながら、その答えに何も反応できなかった。
「陽紫にはいろいろと助けてもらってばっかり。感謝してる」
「好きでやってますので」
「私が死んだ時はふたりの事、よろしくね」
「縁起でもない」
口の端だけが上がる、無理して作ったような笑顔。腕を貸す機会をまだまだ味わいたかったのに、まるで全て分かっていたかのようなタイミングで…彼女はその後すぐ亡くなってしまう。
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