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紐が消え去る直前だっただろうか。
クリーニング店から出てきた多香子さんと偶然鉢合わせ、家まで車で送り届けた時があった。ありがとう、と微笑んで助手席の扉を彼女が開けた瞬間。吹き込んできた風にふわりと乗り、香ってきたのは花の蜜のように甘く、でも女性をイメージするには荒すぎる…知らない男の匂い。
「男に抱き締められでもしましたか?」
「そんな事されてないよ!」
「でも匂いが」
いつもと違った。それは短い抱擁の後の残り香程の、微かな。
恥ずかしそうに伏し目になった表情は…以前見たことがあるものだった。
『可愛かったの』
好きな男性の事を思い浮かべていた、茅香子さんのあの表情。
「クリーニングに出す前にもう一度だけ、羽織らせてもらったから…かな」
それじゃね!と慌てて車から降りていった姿を見届けた後の助手席には、嫉妬の人影が座っていた。その時初めて彼女から感じた匂いは…他の男の匂い。その、荒いが花のような香りはしばらくして彼女の肌から匂い立つようになる。
あなたは『空気』でしょう。どんなに近づいたとしても何の匂いもしなかったじゃないですか、茅香子さん。
年末年始は見ていられなかったが、寂しがりながらも彼女の中は露利さんでいっぱいだった。相手も知っている状態だ。いつでも日常生活が送れなくなるくらいに痛め付けてやれる。その理由にもなる忠告だってしておいたのに、彼は悪くないとかばうのもまた、彼女。そんなに想う男がいることが面白くない。
『木田さんが私を傷つけてるじゃない!』
茅香子さんと似ていない中身の多香子さんなんか、どうでもいいんです。
『私と紅大が幸せそうだから、急に彼に対抗してきたくせに!』
欲していた茅香子さんには近くなりそうにないのにそれでも、ふたりが想い合っている様子を彼女から感じて…腹立たしい。おっしゃる通り。こっち向いてくださいよ、多香子さん。
『今も昔も可愛いよ』
本人が生まれる前から知る、惹かれた茅香子さんの外見の可愛さ。要するに、茅香子さん。
『ああ、やっぱり早くに手を出しておくべきでした』
彼女が依存してくれていた時期に、茅香子さんを、そのまま。
ベランダで煙草をふかす。悠一郎さんの上着を借り、バイクで実家へ戻っていく階下の彼。空気を纏って膨らみ離れて行くのを上から煙でなぞり眺めていた。
きっとあの中は、多香子さんとのあたたかい未来がつまっているのだ。腹が立つのも本当だが、塞ぎ込む彼女を思いやっての行動、未来を望み腹を括った男には勝てないのだとよく分かった。ふらふらとふたりの女性の間を行き来している自分には塞ぎ込む彼女に、何もしてあげられない。家族でも、恋人でもない。すがられる事もない。
『去年も同じように会いに来てあげたらよかったのではないですか?』
過去を問いただした自分に、未来を見つめていた青年の答えが突き刺さる。
自分は過去の人が現実に現れる事を望んだだけだったから。未来に希望も持てず、バイクを傷つけようとしたあの頃と、どうやらひとつも変われていなかったようだ。
悠一郎さんが彼を受け入れる態度を取っていたのも今なら頷ける。こんなふらふらした男の方には、大切な娘は預けられないだろう。
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