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ウサギの預かり物
紅い輪のついた鍵を回す。
一緒に暮らし始めてから、やっと使えたふたりの家の私の鍵。扉を開けるのが勿体なく、彼を見上げてみると『おかえり』と笑ってくれた。
久しぶりにスッキリとした視界で見たからだろうか、見惚れてしまう。私が塞ぎ込んでいた期間きっといろいろあった事で…落ち着いた男性の頼れる雰囲気というものを、更に会得していたようだった。
またモテちゃうよ。困ったなあ。
「そろそろ入らない?」
ふっと笑う、変わらないところも見つけて安心できた。
ゆっくり話そうか、とソファに並んで座ったはずだった。
「く、苦しい…っ」
「怖いんじゃなかったら我慢して?お願い。ずっとずっと待ってたんだ」
ゆっくり手を引かれ『抱き締めていい?』と囁かれた直後、腕の中。ハッキリした意識で感じる体。閉じ込められたような狭さだった。
「匂いが気になるけど…とにかく、帰ってきた。会話が出来る、笑ってくれる」
「ずっと側に居てくれて、ありがとう…!」
木田さんの件は帰りの車内で説明したけれど、下着姿だった事は…内緒だ。
『あの人は本当…』
飲み込まれた言葉の続きは、一体何と言うつもりだったんだろう。
「悠一郎さんから、社内にいないって連絡が来てからはもう…不安でたまらなくて」
感謝と感動でいっぱいの自分と、彼の気持ちにはかなり差があるらしい。もちろん安堵も伝わるがそれ以上に、張り詰めていたものが緩み、沁み出てくるような切ない声色だった。
「お前あの時、『離れる』って言っただろ」
「あの時?」
「恋人以外の男に無理矢理襲われたらどうするって聞いた時。だからいつかふらっといなくなるんじゃないかって、ずっと思ってた。一緒に暮らすのも俺の為。ひとりじゃ出歩けないお前に付き添ってたのも全部、全部!俺の不安を消す為なんだ。自分の為。ごめん」
掻きむしるように動く背中に回る手が、待って、行かないで、ここにいてと懇願してくる。
「いなくなったら…どうやって毎日を過ごしていけばいいのか、分からない」
泣いてる。
肩口から聞こえる声が苦しそうに鼻にかかるのに止まらない。どこにも吐き出せず、溜め込み続けさせてしまった…彼の本心。
「仕事から帰ってきたとき、家にいるはずなのにいないかもしれない。職場に迎えに行ったら、いなくなってるかもしれない。風呂に入ってる間に消えてるかもしれない!朝起きたら隣が空っぽかもしれない!過去に戻って、結城の所に戻ってしまうかもしれない!だってあいつが言ってた『何も考えたくなくなる時がきて身を任せたくなった』状態そのままだった!昔の言葉を聞く度に、思い出してそっちに行ってしまうんじゃないかって!そうやっていつもいつも…俺から離れていく姿が想像できて不安だった…!
支えるっていう使命を着て、自分の弱さに気づかれないように、必死で!ひとりで出歩けない間は勝手にいなくなれないよな、良かったって思ってた!外で必死にしがみついてくれて、嬉しかった!男に怯えた時も、俺にはすがってくれて優越感に浸りそうだった!夜中苦しそうにしてる時もまた…良かった!隣に居た!寝てる間に離れてなかったって、安心してたんだ!本当に、最低なんだ!」
静かな部屋、落ち着かない彼の心情と呼吸音だけが止まない。
「…顔が見たいな?」
「嫌だ」
「見つめながら頭を撫でてあげたい」
ゆっくり離してくれた体。いつもより赤い、こんなに泣いている顔をハッキリ見るのは初めてだ。この人は存外、甘えたがるし寂しがり屋。そして傷つきやすい。
周囲からの見た目の評価に執着していた頃、それを上手く隠すようになったんだろうな。
そんな弱さを愛しく見つめた。
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