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行き先を告げられたのは助手席に降ろされ、発進してからの事。
「酷い!それならそうと前日にでも言っておいてよ!」
「それだとサプライズにならないだろ」
「プロポーズは嬉しかったけど、そういう事は別でしょう?!」
何の心積もりも出来ていないのに、車は軽快に進む。運転手のハンドルも軽そうだ。襟首でも掴んで思い切り揺さぶってやりたいが、その小指に見える心臓の一部が『許してあげて』と輝いてくる。
「遅かれ早かれ行く事になる」
「そうだけど!」
興奮と動揺でボリュームが上がってきた声が、冷静な口によって蓋をされる。信号待ち、ゆっくり離れて行く姿をうなじを撫でられながら見送った。
行き慣れた人からすれば日常的な場所だろうと、こちらからすれば別世界。聞いていたなら服装も違った、気合いだってもっともっと入れて玄関を出た。
いつもなら後れ毛のひとつやふたつ完璧に自然な位置に出してくれるのに、やたらときっちりまとめられた髪型にも、納得した。
「もう受け入れたんだから、諦めろ」
「諦めかけてはいる」
「少しでも早く結婚したいから。お願い」
ほんと、ズルいなぁ。
緊張は収まらないものの、完全に諦めがついてしまった。
プロポーズを受けた直後、彼の実家に直行する車内は甘さと辛さが混じったような空気だった。
境界線、と感じた塀をぐるりと回り裏口の駐車場へ。踏み締める度に、聞く機会の少ない砂利の音が響く。
通らなかった正門から玄関まで続く揃えられた生け垣に、泳ぎ続ける視線を何度もぶつけながら並んで進んでいた時だ。
「あら坊っちゃん」
「きゃっ!」
大人の腰ほどの高さの垣根から、突然熟年の女性の声と小さな顔が飛び出してきて彼にしがみついた。
「ミヨさん、お疲れさまです」
「そちらの方、もしかして」
「結婚相手です」
黒のパンツに白い割烹着、いかにも昔からのお手伝いさんという出で立ちのミヨさんと目が合う。佇まいを正して、一礼。
そうして『まぁ坊っちゃん!』と聞きなれない呼び名を何度も叫ばれながら…号泣されたのだった。
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