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「お母さんから伝言があるよ」
「あ?茅香子?」
元々静かな場所だ。
さっきまでよりさらに、音はない。
声がやけに響くから、月の向こうにいる母にもはっきり聞こえるだろう。
母の隣。だらしなく空気を見つめながら座り続ける父に、誰も声をかけられず遠くから見守り続けて30分。
陽紫に急かされてしまった。
もう少しだけ時間が欲しいとお願いし、ひとりで彼の前に立つ。
ずっと座ってお尻が痛くなったかもしれないウサギを、父に差し出した。
「どこまで理由があるのか分からないから、全部伝えるよ?」
「おー」
「お願いされたのはね?結婚する時に必ず私から直接、これを渡しながら伝えてって」
どうして泣きたくなるんだろう。
欠片程しか知らない、ふたりの歩みを想像させる言葉だからか。私と紅大がそうなように、父と母にもありすぎるくらいいろんな事があったんだ。
出来る事は、伝言を渡す事。
感謝を伝える事。
「『この子が来てから、幸せしかなかった』」
こんなに目の開いた父の顔を、初めて見た。
ウサギの丸い背中が笑ってる。
「『奪ってくれて、奪われてくれてありがとう』。私からも。悠一郎、今までありがとう」
痛い沈黙の後。
差し出したウサギが拐われた。
笑いだしそうに、泣き出しそうに揺れる体。
やっぱりお母さんってすごいんだ。亡くなって随分経つのに未だにこんな、父を弱らせるなんて。
「あの野郎…」
「そろそろ行ける?」
紅大までやってきた。いつもと違う様子の父に、何事かと寄り添ってくる。
「ちょうどいい。色男に謝らないといけねぇ事がある」
「キッチンの件なら謝ってもらいましたけど」
「ちげぇよ。ま、お前に謝ってもしょうがないとは思うけどな」
だらしない体勢のまま続いた父の謝罪に、ふたり顔を見合わせ、今度は紅大が弱まった。
泣くのを堪えたような枯れた声が耳から離れない。
私も泣けた。
お母さん。
そんな事しちゃ駄目だよ。お父さんもだけど。
でも、ありがとう。
おかげでお母さんの言葉を私より大切にしてくれるこの人と、今日を迎えられたよ。
「やっぱり俺にとって幸せの鍵は、悠一郎さんです」
結婚というものは、人によく頭を下げさせ、泣かせ、幸せを確認させるものなのだと、泡立ったような視界でその光景を眺めていた。
「礼なら茅香子に言ってやってくれ。紅大」
なかなか元の高さに戻りそうにない義理の息子の整った髪を、満足そうな父が乱暴に乱していた。
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