もうすぐ、

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「冗談だ。さすがにしない」 「なら、冗談をはたらく手…っ、そこから、離してっ」 運動して消化する方法もあるなと思いついていたが、見上げてくる鋭い目に諦めた。 胃酸に期待。 「もう!それとまたボディクリーム隠したでしょ?探した!」 「匂いが甘すぎる」 そもそも、保湿クリームによって甘だるい匂いにコーティングされた体が、前にも増して肌触りがいいのが悪い。暇を見つけては味わおうとしてしまう。 なにもつけていなくても、すっかり移った自分の匂いも確かに感じる。なのにまったく同じではない、彼女自身から放たれる匂いの方が好きだ。甘だるい匂いより、遥かにいろいろな欲を誘う。 彼女自身の匂いがないと、落ち着いて過ごせない。眠れない。 「大切な日の前しか使わないから。次の日肌の調子がいちばんいいんだよ」 いよいよ明日に迫った、大切な日。 実家に到着すれば、早朝から夜まで慌ただしく息つく暇があるかどうかすら分からない、忙しない日。その為だと言われればなんとか耐えられなくも、ない。 「着物なんて見えるところ少ないのに」 「最高の首筋を見せてあげるからね」 「楽しみしかない。我慢する」 肩を揺らしながら、再び見上げてきた眉間に触れる。クリームが違うのか顔は普段の匂いに近く、思わず口内も確かめていた。 いつもと同じ、鼻に抜ける彼女自身の甘さと熱さだった。ようやく腹も気持ちも落ち着いた。 「眠るまでずっとキスしてていい?」 「寝たくなくなっちゃうから、だめ」 断りながらも、差し出されるような唇と瞳の輝き。魅せられ、距離を埋めに走る目の隅に、彼女の大切な物が映る。 ベッドのすぐ横。 棚の一角に集まっている大切な物。 突き返されていた茅香子さんのウサギ。 首には赤いリボン。 いつの間にか颯からもらったという、フェルトでできたニンジンはウサギのご飯のつもりらしい。 年に1度やってくる紫陽花のブーケ。 隠しているつもりの、モチーフが外れたヘアピン。 捨て去って欲しいものもある。 それでも、その全部が彼女を作っているのだと思えるようになったから、見守っている。 天秤の小物置きは『特別だから』と中央に。 片方の皿には腕時計。 もう片方には悠一郎さんのサイズの茅香子さんの指輪。そして、大切な日に薬指にはめるふたり分の指輪。 ふたりの幸せを知ってしまえば ひとりにはもう戻れない。 幸せを契るのは明日。そのときを迎えるまでに必要なものはあと、お互いの心臓だけ。 準備は整った。 もうすぐ、彼女が俺のものになる。
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