番外編 1

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昨晩準備したカバンの持ち手は、そのときまだソファの背もたれから見えていた。 出勤の時間がズレていようが、どちらかが休みだろうが、夜中に嫌な理由で目覚めることがなくなってからは必ずふたり揃って食べる朝食。 食事の準備は自分がすることが多い。 テーブルには、向い合わせの白い食器にサラダとスクランブルエッグ。あとはトーストと、コーヒーをお揃いのカップに注げば、できあがり。 シャワーを止めるために、ノズルを戻す控えめな音を聞いたあとすぐが、朝のコーヒーを淹れ始めるのにちょうどいいタイミングだ。 今朝はまだ止まりそうにない。いつもより長く感じる水音にすら、文句を言われている気がしてくる。 いつの間にか逃げ出していたカバンに気がついたのは、そんな頃。 香ばしい匂いを家中に広げる準備を始めるには少しだけ早く、中途半端に空いてしまった時間をどうしようかとさ迷わせた視界に入ったソファには、彼のスマホしか居座っていなかった。 カバンがないことも気になるけれど、珍しいスマホの場所も目についた。腕時計のそばが朝の定位置なのに。 いつもと違う居場所に、うつぶせて怒っているようにも見えるシルバーの本体はくすんで見えた。 あとで戻そうと浴室の前に置いておいた掛け布団を、頼まなくてもベッドの上に畳んで戻しておいてくれるような彼が、普段と違う行動をしている理由には…思い当たりがありすぎる。 ひとまずカバンの行方を追うと、見つかったのはいつも彼が使う側のベッド脇。死角になっていて分かりづらかった。 ソファへ戻したところで、タオルをかけた頭が近寄ってくる。 「拭いて」 なにも着ていない上半身からたちのぼる、清潔な匂い。短くなった髪には、もうほとんど水分は残っていないというのに。 甘えるように耳元に触れてくる鼻先がくすぐったくて、きちんと要望に応えてあげながら口先だけの文句を紡ぐ声は、我ながらひどく幸せそうだ。 甘えとは遠いように見える大人の男性が、ふたりでいるときは子どもみたいだからいけない。 「あ!ごめん!トーストとコーヒーがまだなの!」 「ゆっくりでいいよ。淹れようか」 「すぐできるから座ってて?」 「手伝う」 「ありがと…って、こら。だめだってば」 「惜しい」 甘える子どもは、すぐ大人に成長してしまった。油断しかなかった首もとを甘噛みされてしまう。 そのままの勢いで痕を残される前に、熱い素肌を押しやった。
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