番外編 1

11/66
前へ
/369ページ
次へ
先に食べ終えた食器を片付け、そろそろ出ようかとしていると再びカバンが消えていた。 足が生えたわけではないし、犯人も犯行理由ももちろん分かっている。 「もういい加減に…いじわるしないで。どこに隠したの?」 「ん?なにを?」 まだ朝食途中の甘えん坊はこちらを見ることなく、コーヒーをのんびり飲みながらシラをきる。 スーツパンツにインナーシャツしか着ていないのに、なぜだか絵になってしまうのが憎い。 勤務中でも知らない間に見惚れられてるんだろうな。見惚れてしまうのも、分かりすぎるくらいに分かるけど。 張りつめたような図書館の静けさのなか、凛とした立ち姿は絵になるし。笑顔を振りまいているわけではないけど、見るな触れるな近寄るなの3拍子が揃っていたような目つきと雰囲気もすっかり柔らかくなった。 彼を視界に入れた人全員に『私の婚約者です!』と喚いていくのも現実無理だ、ただの迷惑な女になるし。 ピンクな紙に『気を失わせ上手』とでも書いて背中に貼っておこうか。 いやいや、そんなことしたら引かれるどころか、そっち目当てのすごい色気の女性が近寄ってきてしまうかもしれない。 普通に『結婚相手がいます』でいいか。瞬間接着剤で背中に貼らせてくれないかな。おでこでもいい。 そんな風につらつらと考えるときばかりは、自分の親指を飾る輪を、彼の薬指に返そうかと悩む。正式な婚姻の指輪はまだない。 憧れに付き合わせているのはこっちなのに、薬指に輪があれば、なんて。勝手な。 「納得してくれない気持ちも分かるけど…仕事だよ」 「なんのこと?」 「颯の恋人として撮影するから、拗ねてる」 女性向け雑誌で、颯が特集されることが決まったのは1ヶ月前。 『ハヤトと恋人気分』と題された撮影に、参加させてもらうことが決まったときは相手にほっとした。 久しぶりの撮影だ。見知らぬ相手との復帰になるよりずいぶん気持ちが楽だ。 颯は『公式にキミに触れられる!』と浮かれた様子だったけど、きっと考えていることはそれだけではないはず。 長らく撮影から離れていた自分の復帰戦、見知った顔がいた方が気も休まるだろうと思ってくれたのだろう。 もし相手役が決まっていないのなら是非多香子をと、密かに推してくれたと聞いた。ただ触れたいが為なだけではない…はず。 「拗ねてない」 「拗ねてる。機嫌、よくないもん」 「仕事だからしょうがない」 「だよね!だったら」 「カバンなくなったんだっけ?休む?」 「体ひとつでも行くからね!財布もスマホもなにも持たずに!」 コーヒー色のため息は、室内まで苦味で満たしてしまえそうなほど、たっぷり漂った。
/369ページ

最初のコメントを投稿しよう!

185人が本棚に入れています
本棚に追加