番外編 1

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「今日だけ、ちゃんと指輪したい」 「うん。しよう。撮影するときは外しちゃうけど」 「それでもいい」 ずっと、への字に曲がりぎみだった口。 それぞれの薬指へ心臓を返却し終えた頃にはいつもの形に戻り、瞳は優しく指を眺めていた。 カバンが隠されていたのは彼の服が集まるクローゼットの中。 どう背伸びしても届かない高さ、しかも扉を開けただけでは見えないように奥も奥に置かれていた。さすが几帳面に用意周到。 1度勝手に見つけられたのが悔しかったのか、隠し方に容赦がない。 念のため中を確認し、玄関でスニーカーをはく。すぐに着替えをすることになるはず、シャツとデニムのカジュアルな服装に合わせた。 さあ、久々の撮影だ。 「忘れもの」 気合いを入れているうちに、まだ踏ん切りのつききれていない足が背後に立つ。 振り向きざま、機嫌と同じく斜めに下がってきた首筋は、朝でも夜でもいつでも綺麗で見飽きる日が来る気がしない。 コーヒーの残り香、唇にふたくち分。 わざわざ心配をかけるような仕事を選んでしまって申し訳ないけれど、やると決めたからには、やる。 「まあ…がんばって」 「ありがとう!私からも、忘れもの」 「ん?」 屈んでくれた体。 忘れものは…こちらからのキスじゃない。 「ショートパンツをはくの。モコモコしてて、可愛いんだよ?このあたりの長さ」 なんとか死守できた、紅い痕が咲くことが多い腿を指して長さを伝えてから、ほんの少し背伸びをし音をたてて唇に触れた。こちらからは頬にする方が多いけれど、罪滅ぼしに。 首すら晒すことに抵抗を感じている彼だ。事前に知らせたらどうなるかなんて、知り尽くしている。でも隠したままも心苦しくて、ギリギリのタイミングで言うしかなかった。 「は?ちょっと待て、聞いてない」 「ごめんね!今初めて言った!キッチンにお弁当あるから忘れずに持っていってね?行ってきます!」 クローゼットの奥も奥に私自身を隠されるまいと一息に告げ、飛び出す。 気が向いたときでいいと言われているお弁当。渡した日は帰ってくるなり感想を教えてくれるから、楽しみにしてはいるんだと思う。今日は罪滅ぼしのつもりで、好評だったおかずばかりを詰めておいた。 ベッドから見上げる天井に貼りつけている言葉は、もうひとつある。 『逃げるが勝ち』 残念ながらベッドからは逃げられた試しがないから、寝床以外で活躍している。 お互いの愛情を信じているからこそ、いじわるもからかいも、大切に感じている。
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