番外編 1

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なぜ口頭ではなくメモなのか。 こちらから行かなければ、先生から近寄ってきてさりげなく渡されたのだろう。 そういえば江藤くんの忘れものはそのときが最後で、次の日の授業もちゃんと恥をかかずにすんでいた。 いちごオレは結局くれないまま。 淡い憧れが見せる幻想などではない、約束のチケットのようなメモはその日中、ペンケースに入れておいた。 必要以上に開いて存在を確かめては、漂ってくる秘密の匂いを吸い込み、放課後に思いを馳せた。 「失礼します。3-Cの片深です、結城先生は…」 いつもは他の先生も控えている教職員室。 3度のノックのあと決まりごとの挨拶をしながら扉を開いたものの、室内には結城先生ひとりだけだった。 夕暮れのオレンジを背に浴びる先生の片手には、自分のノート。 奥から2番目のデスク。 運動場から小さく聞こえる部活動の声とは対称的な雰囲気に、近づくだけでなぜかイケナイことをしている気分で早く立ち去りたくなった。 授業中目が合ったときにくれる笑顔で、こちらが近づいていくのを何も言わずただ眺められていたから。 視線を合わさないように足早に近づき、礼を言って受け取ろうとした手は、ひょい、とかわされる。 そこでやっと聞けた声は嫌みなほど楽しげだった。 「ちゃんと受け取らなきゃ駄目じゃない」 「ご、ごめんなさい…?」 「ほら、もう一度」 また、受け取らせてはくれない。 「あの…返してくれないんでしょうか?」 「片深って、古文苦手でしょう?」 「文法を覚えるのが辛いです」 「他は出来るのにもったいないよ」 「進学もしないし、もういいかなと」 高校生活もあとわずか。卒業すれば触れる機会もなくなる古文。勉学指導のようなことを言われても、この時期では響いてこない。 授業だって、どうせ今週いっぱいだ。 来週からは自由登校になるし。 「とりあえず1冊。一文からでいい。この話面白いから現代語訳、頑張ってみない?私物だけど」
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