番外編 1

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渡されたのはいかにも古文な本の『上巻』 ますます立ち去りたくなった。 ただ、私物という響きに血流が勢いを増した。 クラスメイト達が知らない先生の特別を、分けてもらえるように感じたから。 「立ったまま頑張らされますか?」 「いやいや、座って。じゃあ早速最初の文、やってみよう。ちょうどノートもあることだしね」 「人を待たせてるんですけど…」 「江藤?」 「違います。お迎えです」 「待たせておこう」 「ええ?!」 隣のデスクの椅子を足で引き寄せる乱暴な音が響いた、誰もいない教職員室。 「ほらほら、早く座って」 強引に座らされ、肩が触れあいそうな距離でワンツーマンの授業が始まる。 他の先生のデスクはお弁当を広げるだけで自由なスペースがなくなりそうなほど、ノートや書類の塔が出来ていた。 結城先生のデスクは整頓されていて、思い切り教科書とノートを広げ、ふたりで覗き込んでもまだまだ余裕がある。 見慣れない雰囲気と、居慣れない距離で先生の隣にいることで心臓がやかましい。 ノーの選択肢のない始まり方だった。自分もいつの間にか、差し出されたペンをとっていた。 すぐに躓いた。 「私そこまで勉強できる方じゃないので…」 「落ち込むの早いなぁ。ほら、ここのところは今日の授業でやったでしょう。江藤と楽しくしてて聞いてなかった?」 「すみません、イラストが面白くて」 「確かにあれは笑えるけど。さ、一文やってみるよ」 逐一手助けをもらいながら進めてみると、10分もかからないほどで冒頭を訳し終えた。 人気の理由には、授業の分かりやすさも入っているらしい。 自分にはちんぷんかんぷんで、分かりやすさを感じられるほど真剣に授業を聞いてもこなかった。 そのとき初めて理由を実感したのだった。 「すごい!出来た!それに面白かったです!」 「でしょう?全部訳し終えたら、きっと古文が好きになるよ…おっと」 「あ!すみません、拾います」 先生の手に当たった消しゴムが私の腕にもぶつかり、床へ落ちていった。 拾います、と言ったものの行方が分からず足元を見渡してみる。 「忘れものを理由に近づいてくる男には気をつけた方がいいね。気を引きたいんだよ」 「忘れもの、ですか」 今は落しものを探しているのですが。
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