番外編 1

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「江藤とか」 「結城先生も私のノート返すの忘れてましたよね?」 「そうだね。だから気をつけた方がいいって、教えてあげてるじゃない」 先生のかかとの脇に見つけた探し物に、伸ばした手。しかし、消しゴムに届く前にデスクの下で力強くとらわれた手首。 また鼻をくすぐる秘密の匂いを感じ、妙に興奮した心臓を静めてくれる人は誰もいない。 「鋭いところもあるんだね」 「あの…?」 「この時間は大体ひとりなんだ。本は貸してあげるから、家でやってみて。分からないところが出てきたら聞きにおいで」 勉強は出来る方じゃないけど、好きな方。 今までになくスムーズに訳せたことで、1冊訳してみたいという気持ちになっていた。 与えられた秘密の匂いに喜ぶ心臓も、意欲に拍車をかけた。 「青い春を大人げなく邪魔しちゃったしね。江藤が調子乗ってる顔してるから」 「青い春?」 「ノートにこんなの挟まってたんだけど」 「あ!傑作イラスト!」 「これは没収ね」 「えー…」 自由登校になっても友達に会うために登校するついでに、先生を訪ねた。 すぐに週に1度が2度に増える。 先生のデスクだと走りの早いシャープペンシルも、家だと躓いてばかりだったから。 1度成功体験を覚えさせられた勉強意欲、足は自然と先生に向かう。 面白いと思った感覚が、忘れられなかった。 質問することの楽しみを覚えてきた頃には、教職員室を訪ねるついでが、友達に会うことに変わっていた卒業までの日々だった。 卒業するまでは、それ以上のことをされた記憶はない。 ただ、毎回消しゴムなりペンなり落とし物をされるだけ。 自分より節の目立つ指が、摘まんだ筆記用具をわざわざ床に向かって落とすのだから、そこだけはさすがの鈍感でもわざとだと分かっていた。 落とし物の合図のあと、デスクの下。 手首をとらえてくる先生の手に、日に日に動悸は増していた。 やはり落とし物をする男性にも、気を付けなければならなかったのだ。
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